小さな子羊よ
            原作:フレドリックブラウン
            ランベスシモーヌ
             
            プロローグ
             
             
 彼女は、夕食の時間に戻らなかった。8時になっても戻らなかった。
冷蔵庫からハムを出して、自分用のサンドイッチを作った。全く心配は
していなかったが、少し落ち着かなくなった。窓際を歩いたり、丘から
街の方角を見下ろしたが、彼女が歩く姿はなかった。
 
 
 



 

2

1





 月明かりの夜で、明るく澄んでいた。街頭の明かりは点々と、丘の曲
線は、黄の大きい月に、青に黒を重ねて、続いていた。ここをくべき
気がしたが、月はだめだ。誰でもに月を入れたとたん、それは、こっ
けいで、こぎれいなになってしまう。ヴァンゴッホは星空のに月を
入れたが、これは、こぎれいどころか、驚嘆 きょうたんするだった。ただ、彼は
これをいたとき、正気ではなかった。正気な人間は、なかなか、ヴァ
ンゴッホのようにはけない。
 パレットを洗っていなかったので、もう少し、を続けようとした。
二日ふつか前にはじめただった。緑をパレットで混ぜはじめたが、思う色が
作れなかった。やはり、昼間の光を待たなくてならないことを、痛感さ
せられた。夜は、自然の光がないところでも、下書きや仕上げはできる。
しかし、色を作るとなると、昼間の光を待たなくてはならない。汚れた
パレットを水洗いして、朝になったら、新しくやり直すことにした。
も洗った。9時に近く、まだ、彼女は帰ってなかった。







4

3





            1
 
 なにか心配するようなことがあるわけでもなかった。どこかで、友達
といっしょで、たのしくやっているのだ。ここの画廊がろうは、街から1マイ
ル離れた、丘の上にあって、途中、電話ボックスもないので、連絡のし
ようがないのだ。彼女の携帯電話は、テーブルの上に置いたままで、持
たないで出かけていた。たぶん、ウェイバリーインで、仲間と一杯やっ
ていて、オレが心配していると、彼女が考える理由もなかった。オレも
彼女も、時間にしばられる生活はしてなかったし、そのことは、お互い
に、了解ずみだった。そのうち、すぐに、帰ってくるはずだ。
 ワインが、グラスに半分のこっていた。窓の外を、街の方角を見なが
ら、ひとくちづつ、飲んだ。背後のスイッチで、電気を消した。その方
が、窓の外がよく見えるからだ。澄みきった夜で、谷が1マイルは見え
た。ウェイバリーインのあかりも見えた。けばけばしいあかりで、うる
さいジュースボックスのようだった。そのせいで、寄るのを、なんどか、
ためらわせられた。なぜか、ラムは、ジュースボックスが気にならない
らしかった。彼女は、いい音楽も好きだったが。
 ほかの光も、いくつか見えた。小さな農場だったり、ほかの画廊がろうとか。
ハンスワグナーのところは、ここから、1/4マイルくらい、丘を下っ
たところにあった。天窓てんまどつきで大きかった。天窓てんまどが、オレは、うらやま

6

5





しかったが、やつのには、興味がなかった。大学で教えるような
スタイルで、カラー写真以上のものではなかった。やつは、ものごとを、
フィルターなしの、カメラのようにしか、見なかった。心の葛藤といっ
たフィルターをとおすことは、しなかった。精工な製図工ではあっても、
それ以上では、なかった。しかし、やつのかいたものは、よく売れて、
それで、天窓てんまどを作ったのだ。
 ワイングラスの残りをすすってしまうと、胸のあたりに、なにかかた
いものを感じた。それが、なんなのかわからなかった。ラムは、たまに、
今よりずっと遅くまで戻らないことがよくあった。心配する理由は、ま
ったくなかった。
 ワイングラスを窓わくに置いてから、玄関を出たが、戻って、電気を
つけた。すれ違いだったときに、ラムの目印になるからだ。もしも、丘
の家の方を見て、電気が消えていたら、オレが不在だと考えて、彼女が
どこにいたとしても、もうすこししてから、帰ろうと考えるに違いない
からだ。どんなに遅くなっても、彼女が帰るまえに、オレが帰ることは
ないことを、ちゃんとわかっていたのだ。
 まったくのバカだ、とオレは、自分に言った。まだ、ぜんぜん、遅く
はない。まだ、9時をすこしまわったところだ。街の方角へ、歩いて、
丘を下っていった。胸のあたりのなにかは、ますます、かたくなったよ
うに感じた。それも、なんの理由もないのだから、ただの、気のせいだ

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7





と、自分に言い聞かせた。街を見下ろす丘の曲線は、丘を下るにつれ、
ますます、高くなって、星々をおし上げた。これを、くには、のキ
ャンバスに、ピンで穴をあけて、後ろから照明をあてればいい。このア
イデアには、笑ってしまった。しかし、なぜ、だめなんだ?誰も、やっ
てないし、やろうとしたこともなかったアイデアだ。すこし考えて、誰
もやろうとしなかった理由がわかった。あまりに子どもじみていて、
人気となげなかったからだ。
 ハンスワグナーのところにきた。ラムがここにいる可能性を考えなが
ら、歩くスピードを下げた。ハンスは、ここに、ひとりで住んでいた。
ラムは、もちろん、ここには、いないだろう。仲間たちといっしょに、
ウェイバリーインや別の場所から、ハンスのところへやって来たのでな
い限り。立ちどまって、仲間たちと騒ぐ声が聞こえるかどうか、耳をす
ませた。騒音は、聞こえなかった。それで、また、歩きだした。
 道は、二手ふたてにわかれていた。街へ行くには、いろいろなルートがあっ
て、彼女と、すれちがいになるかもしれない。オレは、一番近いルート
を選んだ。彼女が街からまっすぐ、家にむかうなら、そこを通るだろう
から。カーターブレントの家を通りすぎた。家は、真っ暗だった。シル
ビアの家は、明かりがついていて、ギター音楽が聞こえた。ドアをノッ
クして、待つあいだ、それは、レコードで、生のギターでないことがわ
かった。セゴビアのバッハだった。ニ短調パルティータのシャコンヌ、

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お気に入りの曲だ。すごく美しく、輪郭がはっきりしていて、それでい
て、繊細だった。まるで、ラムのように。
 シルビアは、ドアまで出てきてくれて、オレの質問にこたえてくれた。
いいえ、ラムは、見てないわ。今夜は、ウェイバリーインには行ってな
いわ。昼から、ずっと家にいたし。入って、コーヒーでも?オレは、コ
ーヒーよりもセゴビアを聞きたい気がしたが、ありがとうと言って、ま
た、歩き出した。
 引きかえして、家に戻るべきだった。暗い気分になる理由なんて、ひ
とつもなかったからだ。ラムが、どこにいるのかわからない、というだ
けで、理由もなく、暗い気分のひとつに迷いこもうとしていた。もしも、
今、彼女に会ったら、ケンカになるだろう。オレは、ケンカが嫌いだっ
た。そんなにしょっちゅうは、ケンカは、しなかった。お互いに、かな
り、がまん強いし、理解があった。少なくとも、些細なことに関しては。
ラムがまだ帰っていないことは、まったく、些細なことだった。
 ウェイバリーインのかなり手前からでも、やかましい、ジュークボッ
クスの音が聞こえて、気分を滅入らせた。窓から中をのぞけるところま
で来たが、ラムは、バーカウンターには、いなかった。しかし、奥にブ
ース席もあるし、そのうえ、誰かが、彼女の居場所を知っているかもし
れなかった。バーカウンターには、ふた組のカップルがいた。ふた組と
も、知り合いだった。チャーリーとイブの、チャンドラー夫妻に、ディ

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ックブリストウと女性。その女性は、ロサンジェルスから来ていて、前
に会ったことがあるが、名前を忘れた。もうひとりの男は、連れなしで、
いかにも、ハリウッドから来た映画スカウトだといわんばかりの格好を
していた。たぶん、そのとおりだったのだろう。
 店の中に入った。幸運なことに、ドアをくぐったと同時に、ジューク
ボックスの音が止んだ。バーカウンターまで行って、ブース席の並びを、
ちらっと見てみたが、ラムは、そこにいなかった。
 知り合いの4人に、「ハーイ!」と、あいさつした。連れなしの男に
も、自分にあいさつされたと受け取ろうと思えば、そうとれるかんじに。
カウンターのうしろにいるハリーに、「ラムは、来てるかい?」と、
いた。
「いいや、ラムは見てないね、ウェイン。私がここへ来た6時以降は、
見てない。飲み物は?」
 とくに、飲みたくもなかったが、ラムをさがしにだけここへ来たと、思
われたくなかったので、ドリンクを注文した。
は、どうだい?」と、チャーリーチャンドラー。
 といっても、なにかののことを意味していたわけでなかった。チ
ャーリーは、小さな書店を経営していて、驚くべきことに、トーマスウ
ルフとコミック本の違いがわかるのだ。しかし、エルグレコとアルキャ
ップの違いは、わからなかった。誤解のないように言っておくが、オレ

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は、アルキャップが大好きなのだ。
「ああ、まぁまぁさ」と、返事した。意味のない質問に、人が、いつも
返事するようなかんじに。そして、ハリーが出してくれたドリンクを、
ひとすすりして、金を払った。どのくらい長くいれば、オレがラムをさが
すためだけに、ここへ来たことが、さとられないようにできるか、考えた。
 どういうわけか、会話が中断していた。オレが入ってくる前に、誰か
が話していたとしたら、そいつは、今は、話していなかった。イブを見
ると、彼女は、マティーニグラスの底をまわして、バーカウンターの上
で輪を描いていた。オリーブがグラスの底で、かき回されて、休みなく
動いていた。そのオリーブの色が、さがしていた色だということに、突然、
気づいた。1・2時間前に、くのをあきらめる前に、作ろうと思って
いた、色だった。ジンとベルモットにひたった、オリーブの色。丘の頂かいただき
らのスロープの色、右に向かって暗くかげり、左は明るくなってゆくかん
じだ。オレは、その色をじっと見つめて、おぼえた。あした、作れるよう
に。たぶん、今夜、帰ったら、作ってみよう。今、できるはずだ。昼の
光があろうが、なかろうが。そうだ。そこにあるのが、さがしていた色だ
った。なにか、気分がよくなった。さっきまで、苦しめられていた暗い
ムードは、どこかにふきとんでしまった。
 しかし、ラムは、どこだろう?戻ったときに、彼女が戻っていなかっ
たら、のつづきができるだろうか?また、理由もなく、彼女のことを、

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心配するだろうか?胸のあたりに、また、なにかかたいものを感じ出す
だろうか?
 グラスを見ると、カラだった。早く飲みすぎたようだ。もう一杯注文
すべきだった。そうしないと、なぜ、ここへ来たのか、バレてしまうだ
ろう。ラムに嫉妬しっとしたり、心配したりしていると、みんなに、ここにい
る人たちにさえも、思われたくなかった。ラムとは、互いに、心のなか
では、信頼しあっていた。彼女がどこにいるのか気になって、帰ってき
てほしいとは思うが、それだけだった。彼女がどこか特定の場所にいる
のではないか、と疑ってはいなかった。みんなは、そこまでわかっては
くれないだろう。
「ハリー、マティーニをくれないか?」オレは、そんなに多くは酒を飲
まないし、いろいろ混ぜると、体によくないことを知っていたが、あの
色を、近くで観察しておきたかった。すべてが、その色を中心に展開す
る、中心の色になるはずだった。
 ハリーは、マティーニを作ってくれた。味は、うまかった。オリーブ
をまわしてみたが、欲しかった色ではなかった。茶が、あまりに強かっ
た。しかし、まだ、あの色は、おぼえていた。今夜、帰ったら、仕事した
かった。もしも、ラムを見つけられたら、彼女がいてくれたら、仕事が
できる。その色で、曲面を描けるだろうし、あした、ほかの色を混ぜた
り、かげらしたりできるだろう。

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 ただ、彼女と行き違いになっただけだったり、あるいは、彼女がすで
に帰宅していたり、帰る途中であれば、だが、その可能性は、小さい気
がした。何十人もの知り合いがいたし、彼女がいる可能性のあるすべて
の場所を、あたってみることはできなかった。なかでも、もっとも、い
そうな場所があった。マイクのクラブだ。1マイル先の、街の反対側だ。
誰か車を持っている友人といっしょでなければ、彼女がそこへ行ってい
る可能性は低いが、ありえることだった。電話すれば、わかるだろう。



            2
 
 マティーニを飲みほして、オリーブをかじってから、電話ブースへ行
こうとして、イスをまわした。ハリウッドから来たような、ウェーブし
た髪の男が、ちょうど、ジュークボックスからバーカウンタへ、戻って
くるところだった。曲が始まる前の、パチパチいう音がした。男は、コ
インを入れて、なにか、やかましい曲をリクエストしたのだ。ポルカか
なにか、やたらうるさくて、不快な曲を。やつの鼻先に一発かましてや
りたかったが、やつがバーカウンターに戻ってきても、目を合わせなか
った。なぐったところで、なぜ、なぐられたのか、わけがわからなかったに

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違いない。電話ブースは、ジュークボックスのとなりで、マイクのクラ
ブに電話しても、一言も、聞き取れなかっただろう。
 曲は、3分あって、1分待った。1分で、十分だった。早く電話して、
ここを、出たかった。電話ブースへ歩きながら、ジュークボックスのと
ころまで来ると、壁から、コンセントプラグを引き抜いた。静かに、引
き抜いた。乱暴に、ではなかった。しかし、静けさは、突然だったので、
イブチャンドラーがチャーリーチャンドラーに話していた、最後の数ワ
ードが、まるで、大声で叫んでいるかのように、聞こえた。金管楽 ブ ラ ス器よ
りも高い声で、ジュークボックスのプラグを引き抜いたと同時に、アナ
ウンスのように響いた。
「ひょっとして、ハンスの━━━」なにか、言おうとしていたとしても、
そこで、急に、黙った。
 イブチャンドラーの方を見ると、目は、おびえているように見えた。
 イブチャンドラーの方は見たが、ハリウッドから来たゴールデンボー
イには、注意を払わなかった。やつのコインを無駄にしたことを気にし
ていたなら、文句を言うことも、また、ジュークボックスを始めること
もできたはずだ。電話ブースに入ると、ドアを閉めた。電話が終わるま
でに、ジュークボックスがまた始まったら、また、同じことをするまで
だったが、始まることはなかった。
 マイクのクラブに電話すると、誰かが出たので、「ラムは、いるか?」

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と、いた。
「どちらさまで?」
「ウェイングレイだよ」辛抱強く、いた。「ランベスグレイは、行っ
てるかな?」
「なんだ━━━」やっと、マイクの声だとわかった。「最初に、そう、
言ってくださいよ、グレイさん。いいえ、あなたの奥さまは、いらして
ませんよ」
 ありがとうと言って、電話を切った。電話ブースを出たとき、チャン
ドラー夫妻は、すでに、帰っていた。外で、車が発進する音が聞こえた。
 ハリーに手をふって、外へ出た。チャンドラーの車のテールランプが、
丘をのぼって行った。車が走り去った方角に、ハンスワグナーのところ
があった。夫妻は、オレが聞くべきでないことを聞いてしまったとか、
そこへ行くかもしれないことを、ラムに、つげぐちするために、その方
角に向かったのかもしれなかった。
 しかし、それは、あまりに、バカげた考えだった。イブチャンドラー
が、ラムがハンスといっしょだ、と考えた根拠がなんであったにせよ、
それは間違った考えだった。ラムは、そんなことをするはずはなかった。
イブは、たぶん、どこかで、ハンスといっしょに、ドリンクをとってい
るラムを、何度か見て、それで、物事を悪く、とったのだ。ひどく、悪
く。どうあれ、ラムは、それよりずっと、よい趣味だった。ハンスは、

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たしかに、ハンサムで、オレとは違って、女性にやさしい。だが、ハン
スは、アホなうえに、けない。ラムが、ハンスワグナーのような
男に気を許すはずはなかった。
 今、家に戻るべきだった。オレが街じゅうをめぐって、妻をさがして
いる、という印象を、みんなに与えたいのでない限り、これ以上、ラム
を見たかどうか、いてまわることはできない。自分のことを、人間的
に、あるいは、画家として、どう思われているか、全く、気にはしてい
ないが、ラムについて、悪い考えをいだいているとは、思われたくなかっ
た。
 チャンドラーの車が通った道の方へ、澄んだ月明かりのなかを、歩き
はじめた。ハンスのところが見えてきた。チャンドラーの車は、とまっ
ていなかった。一度とまったとしても、すぐに、行ってしまったのだろ
う。このような場合、そうしたはずだった。車がとまっているのを、オ
レに見られたら、悪くとられかねなかったからだ。
 電気はついていたが、そのさきの、丘の上の家をめざした。たぶん、
ラムは、今ごろは、帰っているはずだった。そう、望んでいた。とにか
く、ハンスのところでとまる気はなかった。チャンドラー夫妻が、来て
いようが、いなかろうが。
 ラムは、ハンスのところから、家までの道ぞいには、見えなかった。
しかし、ラムは、オレに見つからないように、そうできたはずだ。もし

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も、そう、そこにいたとしても。もしも、チャンドラー夫妻がやってき
て、ラムに、つげぐちしたとしたら。
 ウェイバリーインからハンスのところまで、3/4マイル。ハンスの
ところから家まで、たったの、1/4マイル。ラムは走れただろうし、
オレは、歩いていたのだ。
 ハンスのところをすぎた。美しい画廊がろうで、うらやましかった、天窓てんまど
きだ。場所でも、シャレた家具でもなく、すばらしい天窓てんまどが、うらやま
しかった。そう、たしかに、外なら、すばらしい光がえられる。しかし、
風もあれば、日によっては、ほこりもある。たいていは、なにかを見な
がらくわけでなく、頭のなかにくのだ。外にいることは、なにも、
有利なことはない。丘をいているあいだ、丘を見ている必要はない。
丘は、すでに、見てあるからだ。
 丘を見あげると、家の電気はついていた。電気はつけて出たのだから、
ラムが家にいることにはならない。丘をのぼる道は、すこし曲がりくね
っていて、重い足どりで進んだが、それまで、あまりに速く歩きすぎて、
息が切れた。立ちどまって後ろをふりかえると、そこには、あの構図が
あった。大きな丸い月は、さっきより、すこし高くなって、すこし明る
く輝いていた。近くの丘を黒く照らして、遠くの丘は、さらに、黒々と
照らしていた。こいつは、けると思った。黒の上に灰色、灰色の上に
黒だ。それに、モノクロでない、黄の光だ。ハンスのところの光のよう

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に。ハンスの黄色い髪のような、黄の光。背が高く、北欧ゲルマンタイ
プでハンサム。魅力的な曲線を描く顔。たしかに、女性にモテるのも、
もっともだった。女性といっても、ラム以外の女性に。
 ひと息つけたので、また、丘をのぼりはじめた。ドアの近くまできて、
ラムの名前を呼んだ。しかし、だれも、こたえなかった。なかに入った
が、だれも、いなかった。
 なにか、閑散かんさんとしていた。ワインをグラスに注いで飲んだ。中断した
を見にいったが、は、完全に、間違っていた。なんの意味も、伝え
ていない。線は、うまくいてはあるが、なんの意味も、まったく、伝
えていない。のキャンバスごとスクラップにして、最初から、やり直
すべきだった。もっと前に、そう、すべきだった。なにかを成し遂げる
唯一の方法は、自分がなにか、間違えを犯したときに、きっぱりとした
態度でのぞむことだ。しかし、今夜は、なにもしたくなかった。
 ブリキ製の時計が、11時半をつげた。まだ、おそくはない。なにも
考えたくなかったので、なにか読むことにした。なにか、詩とかが、た
ぶんいい。本棚のところまで、行った。ブレイクがあった。それは、い
つも、オレに、もっとも短いが、もっともすばらしい詩のひとつを、思
い出させた。「小さな子羊よ」という詩。それは、いつも、オレに、ラ
ムのことを、思い出させた。
 

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「小さな子羊よ
 だれが なんじを
 つくったの?」
 この詩は、いつも、オレだけのことだろうが、ファニーなかんじに、
ねじれた線を思いおこさせた。そのような暗喩あんゆは、ブレイクが意図した
ものでは、もちろんなかった。しかし、今夜は、ブレイクを読む気にな
らなかった。
 T・S・エリオット。
「真夜中は 記憶を ゆさぶる。
 正気でないものが
 枯れたジェラニウムの花を ゆさぶるように」
 しかし、まだ、真夜中ではなかったし、エリオットというムードでも
なかった。プルフロックも。
「さぁ 出発だ
 きみと ぼく
 まるで 患者が テーブルのうえで
 エーテル麻酔にかけられているように
 夜が 空に
 ひろがっているところにむかって」
 彼は、ワードを使って、なにかをしたかったのだろう。オレが、絵の

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具でなにかをしたかったように。しかし、ふたつは、同じものではない
し、手法も、まったくちがう。と詩は、食べることと眠ることほど違
う。しかし、どちらの分野も、それぞれ、かなり広がりがありうるし、
実際、広い。画家は、ボナードとブラックでは、まったく違うが、どち
らも、偉大だ。詩も、エリオットとブレイクは、どちらも偉大だ。
「小さな子羊よ だれが━━━」
 今は、読みたくなくなった。
 ゆっくり考えてから、トランクをあけた。そして、45口径オートマ
チックを取り出した。弾装は、フル装填されていた。弾装を装着して、
安全装置をかけた。ポケットに入れて、外に出た。ドアをうしろ手に閉
めて、ハンスワグナーの画廊がろうにむかって、丘をくだりはじめた。










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            3
 
 チャンドラー夫妻は、つげぐちするために、車をとめたのかどうか、
考えた。そのとき、ラムは、走って家にむかったか、あるいは、たぶん、
チャンドラー夫妻の車に乗せてもらって、夫妻のところへ行ったのだろ
う。走って帰るよりは、バレバレでない気がしたのだろう。だから、ラ
ムがそこにいなかったとしても、なにもなかったことにはならない。も
しも、ラムがいたら、チャンドラー夫妻は、来なかったということだ。
 道をくだりながら、丘や、光の黄に、身構えた黒い野獣を見ようと試
みた。しかし、そこからは、なにも浮かんでこなかった。なにも、意味
をなさなかった。なにも、感じず、まったく、感覚がなかった。まるで、
 テーブルのうえで
 エーテル麻酔にかけられている 患者のように。
「エリオットのやつなんか」と、考えた。「ものごとを、あまりに、深
く見すぎている。人が、手でさわれても、けっして、つかみとれないも
のの、荒野を、むだに、さまよっているだけだ。
 枯れたジェラニウムの花を ゆさぶる
 正気でないもの のように」
 小さな子羊よ
 彼女の黒い髪、顔の白に、黒い瞳。

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 彼女の体の、スレンダーで美しい白。
 彼女の声の、やわらかさ。オレの髪をさわる、彼女の手の感触。
 そして、ハンスワグナーの髪の、あざわらっているかのような、月の
黄。
 ドアをノックした。強くもなく、弱くもなく、普通に、ノックした。
 ハンスが顔を出すまで、長かったのではないか?
 やつが、驚いたのかどうか、わからなかった。やつの顔の曲面は、魅
力的だが、そこに、なにがあるのか、わからなかった。顔の曲線や曲面
を、見ることはできるのだが、そこに、なにがあるのか、読みとれない。
声についても、おなじだった。
「やぁ、ウェイン。入れよ」と、ハンス。
 なかに入った。ラムは、そこにいなかった。広い室の画廊がろうにも、いな
かった。もちろん、ほかにも室はあった。ベッドルーム、キッチン、バ
スルーム。すぐにでも、すべてを見てまわりたかったが、それは、あま
りに、無礼ぶれいすぎただろう。それぞれをすべて、見てからでないと、帰ら
ないつもりだった。
 オレは、いた。
「ラムが、すこし、心配になってね。彼女が、ひとりで、こんなに遅く
なるのは、めったにないんだ。彼女を見かけなかったかい?」
 ハンスは、ブロンドのハンサムな頭をふった。

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「彼女は、帰る途中だと思うけど」と、オレは、ついでのように言った。
ほほえみかけながら。「ちょっと、だれかと、一杯やりたくなったんで、
これから、うちに来て、いっしょに飲まないか?ワインしかないけど、
たっぷりあるんだ」
 もちろん、やつは、「ここじゃ、どうしてダメなんだい?」と言うに
違いなかった。やつは、そう言ってから、なにがいいか、いた。オレ
は、マティーニと答えた。これなら、やつは、キッチンまで行かなくて
はならないし、そのあいだに、オレは、まわりを見れるからだった。
「オーケー、ウェイン」と、ハンス。「ぼくも、同じものにしよう。ち
ょっと、失礼」
 やつは、キッチンへ行った。オレは、すぐに、バスルームを見て、ベ
ッドルームも、ベッドの下まで、ちゃんと見れた。ラムは、そこには、
いなかった。それから、キッチンへ行って、言った。
「言い忘れたけど、マティーニは、軽く、お願いするよ。帰ってから、
ちょっと、きたいんでね」
「わかった」と、ハンス。
 ラムは、キッチンにいなかった。オレがノックして、入ってくるあい
だに、出て行ったのでもなかった。思い出したのだが、ハンスのキッチ
ンのドアは、けたたましい音をたてるのだ。しかし、音は、聞こえなか
った。ドアは、玄関以外には、キッチンのドアしかなかった。

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 オレは、バカだったのかもしれなかった。
 ただし、ラムがここにいて、チャンドラー夫妻が、つげぐちするため
に、車をとめて、夫妻といっしょに去ったのでない限り。
 天窓てんまどのある、広い画廊がろうに戻って、かべ沿いにある小物を、しばらく見
てまわった。見るのもぞっとする小物ばかりだったので、見るのをやめ
て、すわって、待つことにした。少なくとも、数分間、すべてが、大丈
夫と思えるまで、かかった。ハンスが、戻った。
 マティーニをもらって、ありがとうと言った。ちょっと、すすってか
ら、おとなしく待った。なにかを、待っていたわけではなかった。やつ
は、金をかせぎ、オレは、かせがなかった。しかし、オレは、やつのこ
とを、やつがオレを思うよりも、ずっと、悪く思っていた。
「仕事は、どうだい?ウェイン」
「まぁまぁさ」
 マティーニを、ちょっと、すすった。やつは、オレの言葉どおりに、
うすくしたらしく、ベルモットは、ごくわずかだった。ルーズな、味わ
いだった。しかし、オリーブは、思い描いていたものより、すっと暗か
った。たぶん、単なる、たぶんだが、は、この色を中心に組み立てら
れ、展開してゆくだろう。
「いいとこだね、ハンス。とくに、あの天窓てんまど。オレも、ほしいね」
「きみは」と、ハンス。肩をすくめた。「モデルを使って、かかないだ

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ろう?外でかくなら、必要ないよ」
「外も、心の中にあるのさ。違いは、ない」
 オレが言う意味もわからないようなやつに、なぜ、話したりしている
のか、自分に腹が立って、話すのをやめた。窓のところ━━━オレの画廊がろう
の方角の、窓のところに行って、外を見わたした。帰る途中のラムが見
えればと、思ったが、見えなかった。彼女は、ここにも、いなかった。
どこに行ったのだろう?オレがノックしたときに、ここにいて、出て行
ったとしたら、道の途中にいるはずだし、見えるはずだった。
 オレは、ふりかえって、いた。
「チャンドラー夫妻は、こんや、ここへ来たかい?」
「チャンドラー夫妻?いいや、来てないよ。この2・3日、夫妻には会
ってない」
 やつは、飲みおえて、いた。
「もう一杯、どうだい?」
 いいや、と言いかけて、やめた。オレの眼が、偶然、ほんとうに偶然
だが、クローゼットのドアに気づいた。前にいちど、中を見たことがあ
った。奥行きは、広くはないが、男がひとり、立てるほどのスペースは
あった。女でも。
「ありがとう、ハンス。もらうよ」
 歩いていって、ハンスにグラスをわたした。ハンスは、グラスをもっ

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て、キッチンへ行った。オレは、いそいで、クローゼットのドアまで行
って、あけようとした。
 かぎが、かかっていた。
 ドアにかぎは、ついてなかった。いみがわからなかった。出かけると
きに、外のドアや窓にかぎはかけるが、クローゼットのドアに、かぎを
かけるだろうか?
「小さな子羊よ
 だれが なんじを
 つくったの?」
 ハンスは、両手に、マティーニを持って、キッチンから出てきた。そ
して、クローゼットのドアノブの、オレの手を見た。
 やつは、一瞬、静かに立っていたが、すぐに、両手がふるえはじめた。
マティーニが、オレの分とやつの分、グラスのへりからこぼれ落ちて、
ゆかに、小さな、水たまりをつくった。
 オレは、上機嫌に、やつにいた。
「ハンス、きみは、クローゼットに、かぎをかけるのかい?」
「かぎがかかってるって?いや、ふだんは、しないよ」
 すぐに、やつは、自分がなにも間違ったことをしていないことに気づ
いて、おどおどせずに、言った。
「ウェイン、なにか、きみに関係があるのかい?」

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「なにも。まったく、なにも関係はないよ」
 オレは、ポケットから、45口径を取りだした。やつは、背が高かっ
たが、とびかかるには、とおすぎるところにいた。
 そのかわりに、オレがやつに、ほほえみかけて、言った。
「かぎをわたしてくれないかな?」
 マティーニが、さらにこぼれて、タイルのうえで輝いた。背がたかく、
大きくて、ハンサムのブロンドは、ガッツがなかった。やつは、かなり、
おびえていた。やつは、つとめて、ふつうの声で言った。
「それが、どこにあるのか、わからないんだ。なにか、まずいことでも
あるのかい?」
「なにも」と、オレは、言った。「ただ、いまいるところから、動かな
いで。ハンス、動かないで」
 やつは、動かなかった。グラスは、ゆれたが、オリーブは、落ちなか
った。オリーブだけは、残っていた。オレは、やつを見ながら、45口
径のでかい銃口をかぎ穴に向けた。銃口を、ドアの中央からずらして、
中にかくれているだれかを、殺さないようにした。ハンスワグナーを監
視しながら、オレの目のかたすみで見ながら、そうした。
 引き金をひいた。銃声は、この広い画廊がろうのなかでさえ、ものすごい音
だった。しかし、ハンスから目をはなさなかった。まばたきは、したか
もしれない。

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            エピローグ
 
 クローゼットのドアが、ゆっくり開いてこれるように、うしろにさが
った。45口径の銃口は、ハンスの心臓に向けていた。その姿勢をたも
ったまま、クローゼットのドアが、ゆっくり、オレの方に、開いてきた。
 オリーブが、タイルの上に落ちた。その音は、大きくはなく、ふつう
だった。ドアが完全に開いて、クローゼットのなかを見ながら、ハンス
を監視していた。
 ラムは、そこにいた。全裸で。
 ハンスを、撃った。オレの腕はしっかりしていたので、1発でじゅう
ぶんだった。やつは、手を心臓にもってこようとして、はたせずに、倒
れた。やつの頭がタイルでくだける音がした。その音は、死の音だった。
 銃をポケットにしまった。オレの手は、今になって、ふるえていた。
 ハンスのイーゼルが近くにあった。パレットナイフが、へりにおいて
あった。
 オレは、パレットナイフを手にとって、オレのラムを、全裸のラムを、
フレームから、切りとった。くるっとまいて、しっかりと抱きあげた。
このような姿を、他人に見せることは、二度としない。いっしょに、出
発した。手に手をとって、丘の上のわが家をめざして。明るい月あかり
のしたで、彼女を見た。オレは、笑い声をたて、彼女も笑った。

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 彼女の笑い声は、
 銀のシンバル のようだった。
 オレの笑い声は、
 枯れたジェラニウムの花を ゆさぶる
 しおれた花びら のようだった。
 彼女の手は、オレの手をすりぬけて、
 白いスリムなレースをまとって、ダンスを踊った。
 肩ごしに、笑い声が、銀の鈴のように響いた。
 彼女は、言った。
「おぼえてないの? ダーリン?
 ハンスとわたしのことを話したときに、
 わたしを殺したことを、おぼえてないの?
 けさ、わたしを殺したことを、おぼえてないの?
 おぼえてないの? ダーリン?
 おぼえてないの?」
 
 
 
                            (終わり)


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