ファマドユニヴァース
          原作:フレドリックブラウン
          アランフィールド
 
            プロローグ
             
 月へロケットを送る最初の試みは、1954年、操作メカニズムの構
造的欠陥によって失敗した。地球に戻って来ると12人の犠牲者を出し
た。ロケットに爆発物はなかったが、月での着陸を地球から観測するた
め、バートン型分圧モーターが積み込まれ、宇宙を航行しているあいだ
に、とんでもない量の電力を作り出した。月に到達して、それらが放た
れると、稲妻の数千倍明るいフラッシュが発生し、分裂によって、さら
に、その数千倍のフラッシュとなる予定だった。
 幸運にも、ロケットは、住宅の少ない、カッツキルの丘陵地帯にある、
雑誌をいくつも出版している裕福な出版人の土地に落下した。




2

1





 出版人と彼の妻、2人の来客と、8人の召使が、電気的放電により死
亡した。それは、家を完全に破壊し、1マイル四方の木々をなぎ倒した。
発見された死体は11。来客のひとりは、編集人だったが、フラッシュ
の中心近くにいたため、体は完全に分解されたと思われている。
 つぎの、最初に成功したロケットは、1955年に送られた。






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          もくじ
        1 フラッシュ
        2 パープルベム
        3 見たら殺せ
        4 マド・マンハッタン
        5 夜歩き
        6 猛り立ったミシン
        7 メッキー
        8 球体からのアドバイス
        9 ドッペル情報
        10 WBIの谷
        11 より黒い闇
        12 月
        13 球体の歌
        14 アルクトゥルスから来た怪物
        15 フラッシュバック




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        1 フラッシュ
 
 ケイスウィントンは、テニスの1セットが終わったとき、かなり疲れ
たが、そんな素振りは一切見せなかった。なん年もプレイしてなかった
のに、テニスというものは、今、分かったが、本来、明らかに若者のス
ポーツだった。彼は、どう見ても、年寄りではなかったが、31ともな
れば、いつも体調を管理してない限り、疲れ切ってしまう。ケイスはや
ってなかったにもかかわらず、ゲームに勝とうとして本気でがんばって
しまった。
 今、また、ネットを飛び越えるほど、がんばろうとしていたのは、向
こう側にいる娘のせいだった。彼は、ハァハァ言いながらも、彼女に笑
顔を送ろうとした。
「もうワンセットできる、時間は?」
 ベティハードレイは、金髪の頭を振った。「残念ながら、ない、ケイ
ス。今でも遅れそう。ボーデン氏が運転手に、ニューヨークまで戻るた
めに、グリーンビル空港まで送らせてくれると約束してくれない限り、
もう、長くはいられない。彼は、そのくらいのことはしてくれそう?」
「うむむ」と、ケイス。ボーデン氏のことは、まったく考えてなかった。
「戻らないとだめ?」
「絶対だめ。それは、わたしの母校の同窓会パーティで、スピーチしな

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7





きゃならないし、ラブストーリー雑誌をどう編集するか、話すつもり」
「それなら」と、ケイス。提案した。「SF雑誌の編集について話すと
いい。あるいは、ホラー雑誌とか。ボーデンに、『びっくりストーリー』
に回される前は、『血がどくどくテイルズ』をやっていたんだ。その仕
事は、かつて、オレに悪夢を運んで来た。あんたの同窓生たちも、聞き
たいはず、どう?」
 ベティハードレイは、笑った。「そうね、でも、それは、静かな女だ
けのパーティだから、ビックリするようなことはだめ。明日、オフィス
で会えるわね?これが、世界の終わりでは?」
「そう、ノー」と、ケイス。否定した。彼は、ある意味、間違っていた
が、まだ気づいてなかった。
 ベティがテニスコートから、雑誌のボーデンシリーズの出版人である
L・A・ボーデンの夏用の大きな家に向かって歩き出すと、彼も脇をつ
いて歩いた。
 彼は言った。「けれど、ほんとうはここにいて、花火を見るべきだと
思う」
「花火?ああ、月ロケットのこと?なにか、見える、ケイス?」
「そう言われている。それについての記事を読んでは?」
「少しだけ、知ってるのは、月に衝突すると稲妻フラッシュのような閃
光を出すということ。それを見ようとしているみんなに、裸眼でも見え

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るそう。衝突は、9時15分過ぎだとか?」
「16分過ぎ、見るつもりだったので知ってる。あんたも見る機会があ
れば、月のど真ん中を見てればいい。三日月のつのつののあいだ。なにも
見えないなら、それは新月で、暗い部分にあたる。望遠鏡がなければ、
かすかな小さなフラッシュ、だれかが1ブロック先でマッチをったく
らい、もっと近づいて見なきゃならない」
「爆発ではないらしい、ケイス。フラッシュは、どうして?」
「今までだれも見たことのない規模の、電気的放電。バートン教授の開
発した最新式の装置で、加速の反動を電気的エネルギーに変換する。一
種の静電気のようなもの。ロケットそのものが、巨大なライデンびんのよ
うになる。真空の宇宙を旅してるあいだ、なにかに衝突するまでは、光
を発することも漏れ出すこともない。衝突が起こると、光は内部にとど
まらない、回線ショートのオンパレードのようになる。巨大稲妻の電圧
の3・4千倍の、地上では見たことのない稲妻フラッシュのようになる」
「複雑に聞こえる、ケイス、爆発させた方が、簡単では?」
「そう、確かに。しかし、核弾頭よりも、もっともっと明るいフラッシ
ュを作れる。学者たちにとって、興味があるのは、爆発そのものでなく、
明るいフラッシュなんだ。もちろん、それは、少し景観をこわすかもしれ
ない、原爆ほどではないにしても、ブロックバスターよりはもっと、し
かし、それは、付随的なこと。それに、フラッシュを、地球の夜の側に

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あるすべての大型望遠鏡を通して、スペクトル分析にかけることで、月
の表面の物質の正確な組成を調べられる。さらに」
 家の脇のドアに近づいて、ベティハードレイは、手を彼の腕において、
さえぎった。「中断して悪いんだけど、ケイス、急いで行かなくちゃ、
ほんとうに飛行機に遅れそう、バイ!」
 彼女は、手を離して行こうとしたが、ケイスウィントンは、代わりに
彼女の肩に手を掛けて、引き寄せ、キスをした。息つく暇もない一瞬だ
ったが、彼女のくちびるは、確かに、彼のくちびるに触れた。それから、
彼女は離れた。
 しかし、彼女の目は輝いていた━━━少し霧がかかったように。彼女
は言った。「バイ、ケイス、ニューヨークでまた会う?」
「明日の夜、デートは?」
 彼女はうなづいて、家の中へ入って行った。ケイスは、その場に立っ
たまま、ドアポストに寄りかかって、ぼんやりした笑いを浮かべていた。
 また、恋に落ちた。しかし、今度は、今までのものとは全く違ったも
のになった。突然で、暴力的だった、まるで、今夜9時16分の月のフ
ラッシュのように。
               ◇
 
 ベティハードレイを知ったのは、3日前だった。実際、このすばらし

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い週末前に、彼女を見たのは、1回だけだった。木曜に、彼女は初めて、
ボーデン社へ来た。彼女が編集していた雑誌『パーフェクトラブストー
リー』を、ボーデン社がシリーズごと買い取ったからだ。ボーデン社が
賢いかしこのは、雑誌シリーズだけでなく、その編集者もいっしょに買い取っ
てしまうことだ。ベティハードレイは、そのシリーズに3年間携わたずさり、
順調に利益を生んでいた。フェアリー社がそのシリーズを売ろうとした
唯一の理由は、ドキュメンタリーのダイジェスト雑誌に転換を図ってい
たからだ。『パーフェクトラブストーリー』は、フィクション雑誌の最
後の生き残りだった。
 それで、ケイスは、ベティハードレイに木曜に会って、今、ケイスウ
ィントンにとって、木曜は、彼の人生で、おそらく、もっとも重要な日
になった。
 金曜、彼は、フィラデルフィアに、彼の作家のひとりに会いに行った。
その男は、書くことはできるのだが、リードノベルの前払いはもらって
おきながら、なにも書き始めていないようなのだ。ケイスは、プロット
をスタートさせて、うまく書けるように持って行こうとした。
 しかし、結局、ジョードッペルバーグには会えず、同じ金曜に、ニュ
ーヨークに戻って、電話するためにボーデン社にいた。ジョードッペル
バーグの手紙から判断すると、実際に彼と会えなかったことは、むしろ、
良かったようだ。

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 そして、きのう、土曜の午後は、L・A・ボーデンの招待で、ここに
いた。ケイスがここへ来たのは3度目だが、ボスの別荘でのほかの週末
は、ベティハードレイが、ほかの2人の招待客のうちのひとりだと分か
った瞬間、かすんだ記憶となってしまった。
 ベティハードレイは、背が高く、しなやかで、金髪だった。ソフトに
日焼けした肌、編集オフィスにいるよりは、テレビスクリーンにいるよ
うな顔と容姿をしていた。どういう経緯で、編集者になんかなったんだ
ろう?
 ケイスは、ため息をついてから、家の中へ入った。






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 ウォルナット材でできた広いリビングルームに、L・A・ボーデンと
会計責任者のウォルターキャラハンがジンラミーをしていた。
 ボーデンは顔を上げて、うなづいた。「ハイ、ケイス、このゲームが
終わったら、ここを使いたい?もうすぐ、終わる。オレは手紙を書く用
事があるし、ウォルターもたぶん、すぐに、あんたのカネをオレのもの
にするはず!」
 ケイスは頭を振った。「する用事があって、ミスターボーデン、ロケ
ットトークコーナーの原稿を書いてしまわないと、ロケットトークファ
イルを持って来ている」
「ここまで来て、仕事なんてしなくていい。明日、オフィスでやればい
い?」
「そうしたいのだが、ミスターボーデン」と、ケイス。「オレのミスで、
明日の朝、10時ジャストに印刷に回さなくてはならないものが、でき
てない。その締め切りが正午なので、まったく余裕がない。しかし、2
時間で済む仕事なので、今、やってしまって、夜はゆっくりしたい」
 彼は、リビングルームを抜けて、階段を上がった。自分の室で、ブリ
ーフケースからタイプライターを取り出すと、デスクに置いた。ロケッ
トトークコーナー宛ての、最近の手紙がファイルされたホルダーも出し
た。
 ジョードッペルバーグの手紙は、その一番上にあった。そこに置いた

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のは、ジョードッペルバーグは、訪ねて来るかもしれなく、最初に済ま
せたかったからだ。
 タイプライターに紙をセットし、タイトルに、ロケットトークコーナ
ーと打った。そして、仕事に入った。
 
               ◇
 
 さて、宇宙パイロットのみんな、今夜は━━━つまり、これを書いて
いる夜は、あんたが読んでる夜ではない━━━ビックイベントの夜、ビ
ックリナイトだ、担当者は、外に出て、それを見るつもり。月の影の部
分での光のフラッシュは、人の手によるロケットが、初めて宇宙を旅し
て月に到達した証拠となる。
 彼は、書いたものを批判的に見て、紙を引っ張り出すと、新しい紙を
セットした。今のは、ファンに対して、あまりに形式ばって、型にはま
り過ぎていた。タバコに火をつけてから、また、書いた。今度のは、良
くなったか悪くなったか、どちらかだった。
 ひと息ついてから、読み返していると、ドアがいて閉まる音がして、
ハイヒールの靴音が階段を降りて行った。ベティが帰る音だった。立ち
上がってドアまで行ったが、戻って、また、座った。だめだ、ボーデン
もキャラハンもいるところで、今また、グッバイを言ったら、クライマ

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ックスが台無しだ。大急ぎの、息もつかせぬキスと明日の夜に会う約束
だけ残して、そのままにしておいた方がいい。
 彼は、ため息をついて、一番上の手紙を取り出した。ジョードッペル
バーグは言っていた。
 
               ◇
 
 親愛なるロッキーティア様
 手紙は書くべきではなかったかもしれない。あんたの最後のコラムは、
後馬あとうまの話を除いて、アルクトゥルスをずいぶん刺激している。あんなこ
と言えるのは、ゴームリーくらいしかいない?彼の宇宙ナビで?長身の
東洋人でも、天気のいい日にそんな泥のクリークを手漕ぎボートで渡れ
ない。
 それにフーパーの表紙、娘はオーケーで、いいけど、表紙に娘をのせ
ないやつがいるか?しかし、彼女を追うものと言ったら、後馬あとうまの話に出
て来る、火星のデビルか?フーパーに言っといてくれ!オレなら、まっ
たくのしらふでも、金星のべたべたするナメクジがなくたって、もっと
こわいベムを描ける。
 彼女は、ぐるっと回って、なぜやつを追わないんだ?
 中にあるフーパーのさし絵はいい、特に白黒のは、表紙には別のやつ

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を雇ったら?ロックウェルケントやダリとか、オレはダリはいいと思う。
ダリのベムはすばらしい。覚えておいて、ダリはすばらしい!
 ロッキー、聞いて!天王星の安っぽいジュースを用意しておいて、氷
を入れて、というのは、今週のいつか、訪ねに行くつもり。ロッキー、
ニューヨーク宇宙ポートには迎えに来ないで!そのことでうぬばれない
ように、なぜなら、火星人にオレは会ってシリウスについて聞いたから
だ。オレは町にいるから、あんたがみんなが言うくらい醜かみにくったら会う
つもりだ。
 ロッキー、あんたの最近のアイデアは、最高だ!手紙の返信に、半カ
ラムピクセルを使うという、それで、あんたを驚かせようとして、オレ
も手紙を書いている。これを投函するつもりだが、その前に着いてしま
うかもしれない。コラムは、印刷に回す前に、失われてしまうかもしれ
ない。
 では、ロッキー、太った月の子牛を殺さないで!すぐにではないが、
そのうち会いに行く!
                      ジョードッペルバーグ
 
               ◇
 
 ケイスウィントンは、また、ため息をついて、ブルーの鉛筆を取った。

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ニューヨーク宇宙ポートのところに印を付けた。それは、多くの読者に
は興味がないだろうし、オフィスに忘れて来たアイデアを彼らに与えた
くもなかった。そんなことで時間をムダにしたくなかった。
 手紙の別の部分にある、そんなにすれてない部分に、いくつかしるし
を付けた。それから同封されていた写真を手に取って、また、一べつした。
 ジョードッペルバーグは、あの手紙を書くような人物には見えなかっ
た。醜くみにくなく、むしろ知的に見えた。笑顔が似合う、16か17の子ど
もに見えた。たぶん、人間としては、手紙が厚かましいのは、シャイだ
からなのだろう。
 確かに、彼は写真映りがいいのかもしれない。それを写真印刷に回す
か迷ったが、それまで、まだ時間はある。原稿に半カラムピクセルを使
用とメモ書きして、写真の裏に1/2カラム ドッペルバーグと書いた。
 ジョーの手紙の2ページ目をタイプライターにセットすると、末尾に、
こうタイプした。オーケー、ドッペルバーグ、つぎの表紙は、ロックウ
ェルケントに頼むことにする。あんたが彼に支払って!グラマーな娘に、
昆虫眼モンスター(あんたの言葉では、ベム)を追わせる件に関しては、
それはありえない。ストーリーでは、娘は、いつも追われる立場だから
だ。お分かり、ドッペルバーグ?追うものと追われるもの。それは、あ
んたのダリはすばらしいの半分も悪くはないが。
 

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               ◇
 
 そのページをタイプライターから取り出すと、サインして、つぎの手
紙に取り掛かった。
 6時に終わって、夕食まで、まだ、1時間あった。すぐにシャワーを
浴びて、服を着ても、まだ、30分あった。ぶらぶら下へ降りて行き、
フランス製のドアから外へ出ると、庭園になっていた。ちょうど暗くな
り始めた頃で、晴れ渡った夜空に、すでに新月が上っていた。良く見え
そうだ、と彼は考えた。そして、悩むのは、ロケットフラッシュは、肉
眼で見えてくれないと困る、それがだめなら、ロケットトークコーナー
の新しい章を書き出せなくなってしまう、ということだった。そう、9
時16分まで、時間があった。
 彼は、庭園の中央通りの脇の枝編みベンチに腰掛けた。都会から離れ
た田舎の空気を胸いっぱい吸って、まわりの花のにおいをいだ。
 ベティハードレイのことを考えた。そのことは、ここでは、記録する
必要がなかった。
 しかし、考えることは、彼を幸せにした。この幸せとか哀れなといっ
た修飾子は、もっともよく使われる形容詞だ。そのうち、フィラデルフ
ィアにいる小説家のことを考え始め、いつになったら、やつは、ストー
リーに取り掛かって、しっくいで塗り固め始めるのだろう?

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 また、ベティハードレイのことを考えた。24時間後には、月曜の夜、
ニューヨークで、カッツキルの日曜の夜の代わりが始まるのだ。
 腕時計を見ると、あと数分で、夕食のベルが鳴ることが分かった。そ
れは良い知らせで、恋してるにせよ、恋してないにせよ、彼は空腹だっ
た。
 空腹は、理由もなく、考えをめぐらせる。『びっくりストーリー』の
表紙のほとんどをいた、クラウドフーパーのことを考えた。フーパー
を表紙の担当にし続けるかどうか。フーパーは、いいやつで、かなり優
秀なアーティストだった。娘をかせれば、よだれが出そうなのを
た。しかし彼女たちを追うモンスターは、じゅうぶんおそろしいとは言え
なかった。たぶん、彼は、おそろしい悪夢を見たことがなく、とても幸せ
な家庭環境あるとか、そんなところだ。ファンの多くが抗議していた。
ドッペルバーグのように。ドッペルバーグは━━━
 月ロケットは、地球に戻って来た。音よりも速いスピードで、彼から
2ヤードのところに墜落したが、ケイスは、それを見ることも、聞くこ
ともできなかった。
 フラッシュがあった。




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        2 パープルベム
 
 次元が転移したり、瞬間移動した感覚も、時間が経過した感覚もなか
った。それは単に、明るいフラッシュと同時に、枝編みベンチを彼の下
から引き抜いたかのようだった。ベンチの背もたれに寄りかかっていた
が、地面にぶつかる衝撃はなかった。うしろに完全にのけぞった姿勢の
まま、水平に横になって、夜空を見上げていた。
 もっとも驚くべきことは、空を見ているということだった。枝編みベ
ンチが彼の下でこわれてしまった、あるいは、単に消えてしまったことも
ありえなかったが、ベンチは木の下にあったのに、今、彼とどんよりし
た青い薄暗がりのあいだに、木は1本もなかった。
 彼は、頭を先に上げて、それから起き上がった。しばらく頭を、身体
的にでなく、精神的に振った。歩き出す前に、方角の分かる磁石が欲し
かった。
 彼は、芝生の上に座っていた。なめらかに刈り取られた芝生で、庭の
中央だった。背後に、頭を回すと、家が見えた。ふつうの家屋で、ボー
デン氏の家のような広くて凝ったデザインでは全くなかった。誰も人は
住んでいないように見えた。少なくとも、生活している跡はなく、どの
窓にもあかりはなかった。ボーデン氏の家がどうなったか捜したが、見つ
からなかった。数秒して、別の方向を向いた。その方向100フィート

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先に、そこは彼が座っている芝生のはしだが、垣根があった。垣根の向こ
う側は木々が、2列にきちんと並んで立っていた、まるで、道路の両脇
であるかのように。木々は、高い木で、とても美しいポプラだった。
 カエデの木はなかった。彼がさっきまで座っていたのは、カエデの木
の下だった。見える限り、どこにもなかった。枝編みベンチのかけらも
なかった。
 頭をはっきりさせるために振ると、警戒しながら、立ち上がった。一
瞬めまいがしたが、それが収まると、大丈夫だった。なにが起こったに
せよ、ケガはなかった。めまいが収まるまで、静かに立っていた。それ
から、垣根の門へ向かって、歩き出した。
 腕時計を見た。7時3分だったが、それは、あり得ない、と彼は考え
た。ボーデン氏の庭で、ベンチに座っていたのも、ちょうど7時3分だ
った。今いる場所がどこにせよ、一瞬でここへ来ることはできない。
 腕時計を耳にあててみた。ちゃんとチックタック言っていた。しかし、
それは、なにも証明してない。それは、止まったのかもしれない。なに
が起こったにせよ、そのあと、彼が立ち上がって、歩き出したとき、ふ
たたび動き出したのだ。
 時間の経過を調べるために、空を、また、見上げた。経過は分からな
かった。前も薄暗かったが、今も薄暗かった。銀色の新月は、同じ位置
にあった。少なくとも、天頂から同じ距離だった。ここでは、ここがど

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こであるにせよ、彼の方角と方向感覚について、確かなことは何も言え
なかった。
 垣根を抜けると、道は、舗装された片側3車線の高速道路へと続いて
いた。ここから、車は1台も見えなかった。
 垣根の門を閉めて、ふたたび、背後の家を見た。そのとき、前は気づ
かなかったなにかが見えた。玄関の柱の1つに、看板があった。こう書
かれていた。
『売り物、R・ブレイスデル、グリーンビル、NY』
 それなら、彼は、まだ、ボーデン氏の敷地の近くにいるに違いない。
グリーンビルは、ボーデン氏のところから最も近い町だった。しかし、
それは、もともとそうだった。遠くまで来るはずなかった。ほんとうの
疑問は、ほんの数分前に座っていた場所から、そこが肉眼では見えない
ところまで、どうやって来たかだ。
 頭は大丈夫そうだったが、また、クリアにするために振った。突然の
記憶喪失になったのか?気づかぬうちに、ここまで歩いて来たのか?そ
れもあり得ないように思えた。特に数分の間には、あり得なかった。
 彼は、どの道を歩こうか迷いながら、高いポプラの木の間から、広い
アスファルトの道路が上ってまた下るのを眺めた。道路は、まっすぐ走
っていた。ほとんど1/4マイルが見えた、つぎの上りまで、どちらの
方向にも、しかし、人間が住んでる跡はなかった。だが、この近くのど

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こかに、農家があるはずだった。手入れされた牧草地が、ポプラの木の
列の、はるかかなたまで続いていたからだ。たぶん、木々が邪魔になっ
て、近くにあるはずの農家が見えないのだ。牧草地と道路を分けている
垣根まで歩けば、それが見えるはずだ。
 
               ◇
 
 道路を半分横切ると、まだ、視界の外だったが、左の上りの向こうか
ら、近づいて来る車の音が聞こえた。この距離から聞こえるのは、とて
も騒々しい車だった。道路を渡り切って振り返ると、車が見えた。その
車の運転手の服装からして、農家の服装だった。それは好都合で、うま
く説得すれば、ボーデン氏のところまで乗せてくれるだろう。少なくと
も、その方向に行くなら。
 車は、旧式のモデルTだった。たまたま、彼は知っていた。大学時代
にヒッチハイクをした経験から、車に乗せてくれる可能性は、運転手の
年令と車の古さに比例することを知っていた。
 この車の古さは、疑いもなかった。登り坂に苦労して、ぷすぷすと音
を立てた。
 ケイスは、近づくまで待って、道路に出て、手を振った。フォードは
速度を落とし、彼の前で停まった。

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 車の男は、前かがみになって、ケイス側の窓をあけた。窓にガラスは
なかった。ケイスは何気なく見た。「乗るかい、ミスター?」と、彼。
 彼は、ケイスには、とても農民らしく見えた。髪の毛の色のような長
い黄のストローをかんでいて、彼のかすんだ青の目のような、かすんだ
青の作業着を着ていた。
 ケイスは、踏み台に足を掛けて、あいた窓から車の方にかがんで、エ
ンジン音や車が停まってから車体のあらゆる部分が、がたがた言い出し
た音に負けずに大声で言った。
「道に迷って困っている。LAボーデン氏の家は、分かる?」
 農民は、ストローを口の逆側に移動させて、よく考えつつ、努めて顔
をしかめた。
「いんや」と、彼。やっと答えた。「聞いたことねぇ。このあたりの農
家じゃねぇ。道の向こうだろう。あっちの方まで知っちゃいねぇ」
「農家じゃない」と、ケイス。説明した。「大きな別荘で、彼は雑誌社
のオーナー。この道はどこへ?グリーンビル?」
「そうじゃ、あっちへ、オレも行くところ、10マイルぐらい。後ろへ
行けば、カルテレットでアルバニーハイウェイに出る。グリーンビルへ
行く?そこへ行けば、ボーデン氏の住所も分かるじゃろう」
「たしかに」と、ケイス。「サンクス」彼は、車に乗り込んだ。
 農民は、おごそかに彼の前に手を伸ばすと、取っ手を回して、ガラス

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のない窓を閉めた。「がたがた言うのさ」と、彼は説明した。「あけた
ままにしておくと」
 クラッチペダルを踏んで、ギアを入れると、車はうなりを上げて走り
出した。車体のがたがたは、ブリキの屋根にヒョウが降っているような
音がした。車は、トップスピードに達した。ケイスは、車がこのまま進
めば、10マイル先の目的地に、30分かかるだろうと試算した。
 なにはともかく、グリーンビルに着ければ、少なくとも自分のいると
ころが分かる。夕食にかなり遅れているから、と彼は考えた、ボーデン
に電話して、彼を安心させてから、町で食事して、それからタクシーを
拾うか、なんらかの車で、別荘まで運んでもらえばいい。遅くとも、9
時には戻れるから、16分過ぎからの月の花火を見る準備をするのに、
かなり時間がある。そこには、彼が見逃したくないなにかがあった。
 ボーデン氏には、なんて説明しよう?言えることは、散歩をしていて、
道に迷い、車に乗せてもらい、自分の居場所を知るために、グリーンビ
ルへ行った。その言い訳は、バカらしく聞こえた。真実としては、そん
なにバカらしくはないが。そして、上司には、彼が正気でないとか記憶
喪失にかかったとは思われたくなかった。
 ぷすぷすと音を立てながら、古い車は、長い直線道路を走った。彼の
恩人は、おしゃべりが嫌いらしく、ケイスにはありがたかった。互いに
すでにエールを送り合ったのだから、考える時間が欲しかった。なにが

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起こったのか知るために。
 ボーデン氏の別荘は、広くて大きいので、近所の人たちには良く知ら
れていた。旧式のボロ車の運転手は、道路沿いのみんなを知っているな
ら、ボーデンの別荘のことを、そこが閉鎖されていたとしても、聞いた
ことがないのはあり得なかった。それが20マイル以上離れていること
も、あり得なかった。なぜなら、ボーデンは、グリーンビルから10マ
イルのところに住んでいて、ケイスは、町からどの方角にいるのか分か
らなかったが、道路沿いで車に乗った場所が、やはり、グリーンビルか
ら10マイルのところだった。その2つの10マイルの地点が、直径で
見て、ちょうど逆側だったとしても、20マイル以上離れていることは
あり得なかった。その距離でさえ、時間的ロスがほとんどゼロだったこ
とを考えると、あり得なかった。
 車は、町のはずれに来て、彼は腕時計をまた見た。7時35分だった。
彼は、どこか店の窓に時計が見えるまで、車の窓からビル群を眺めてい
た。彼の時計は正しかった。止まって、また動き出したのではなかった。
 数分後、車は、グリーンビルのビジネス中心地区に着いた。運転手は、
カーブを曲がって停めてから、言った。「町の中心地さ、ミスター。電
話帳で仲間の場所を見つけられるはず、それであんたもオーケーじゃ。
タクシー乗り場もあるから、どこへでも行きたいところへ行ける。料金
はおったまげじゃが、どこでも好きなところへ行ける」

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「いろいろサンクス」と、ケイス。「電話する前に1杯どう?」
「いんや、ノーサンクス。馬が子どもを産みそうなんじゃ。弟を拾いに
来た、やつは獣医じゃから、急いで乗せないと」
 
               ◇
 
 ケイスは、またサンクスを言って、車を降りた場所からすぐの角にあ
るドラッグストアへ入った。裏の電話ボックスで、ブースからチェーン
るされた薄い電話帳を手に取った。それをめくって、『ボ』の項目
を捜し━━━
 ボーデンの名前は、どこにもなかった。
 ケイスは、顔をしかめた。ボーデンの電話は、グリーンビル交換台の
ナンバーだった。仕事でニューヨークのオフィスから、なんども電話し
てるから、それは確かだった。
 しかしもちろん、その番号を、電話帳にせてないことはあり得る。
それを覚えている?もちろん、3桁ですべて1だった、グリーンビル1
11。ボーデンは、覚えやすいようにその番号を、電話局からコネで得
たのではないかと疑ったことを覚えている。
 ブースのドアを閉めて、ポケットの小銭入れからニッケル硬貨を取り
出した。しかし、電話は、今まで見たことのないタイプだった。コイン

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の投入口がなかった。まわりをすべて調べてから、こう結論付けた。ち
ょっとハイカラな町では、もう、コイン電話はなくなって、料金は、あ
とで、ドラッグストアの店主に払うのだろう。
 受話器を取り上げると、「番号を、どうぞ」と、交換手の声。番号を
告げると、1分の間。それから、交換手の声が電話線を通じて返って来
た。「その番号はリストにない、サー」
 一瞬、ケイスは、自分がどうかしてしまったのではないかと疑った。
その番号を間違えるはずはなかった。グリーンビル111、あんたは、
そのような番号を忘れたり、間違って覚えたりはしないだろう。
 彼は、いた。「それなら、LAボーデンの電話番号は?その番号の
はずだが、電話帳にはってなかった。電話があることは確かで、なん
ども電話している」
「ちょっと待って、サー━━━いいえ、記録には、その名前はない」
「サンクス」と、ケイス。受話器を戻した。
 彼は、まだ、それが信じられなかった。ブースの外は少し明るかった
ので、チェーンを伸ばせるだけ伸ばして、電話帳を外でひらいた。『ボ』
の下を見て行って、やはり、ボーデンの名前はなかった。ボーデンが別
荘を、フォーオークスと呼んでいたのを思い出して、その下を捜したが、
フォーオークスもなかった。
 突然、彼は電話帳を、ピシャっと閉じると、表紙を見た。グリーンビ

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ル、NYとあった。一瞬、間違ったグリーンビルにいる気がした。しか
し、ニューヨークには、グリーンビルは1つしかなかった。もうひとつ
の、もっとかすかな疑いは、表紙の町の名前の下に、小さく『1954
年春』とあるのを見て、消えた。
 LAボーデンが電話帳にないことが、まだ信じられず、名前が『あい
うえお』順でないかもしれない、1ページ、1ページ捜して行こうとす
る衝動と戦わなければならなかった。
 
               ◇
 
 代わりに、ソーダカウンターまで歩いて行って、旧式の足が広がるタ
イプのスツールに座った。カウンターの向こうの店主は、背の低いグレ
ーの髪の男で、分厚いレンズのメガネをしていた、グラスをみがいていて、
顔を上げた。「イエス、サー?」
「コークを」と、ケイス。質問をしたかったが、なにを聞いたらいいの
か思い付かなかった。店主がコークを混ぜて、彼の前のカウンターに置
くのを見ていた。
「外は、いい夜」と、店主。
 ケイスは、うなづいた。それが、彼に、月ロケットのフラッシュを、
その時間にどこにいようとも、見なければならないことを思い出させた。

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腕時計を見た。8時になるところだった。あと1時間と15分後には、
月が見える外のクリアな場所にいなければならなかった。今は、その時
間までにボーデンのところへ戻れそうになかった。
 彼は、コークを、ほとんど一口で飲み干した。冷たくて、うまかった。
それが、空腹であることを思い出させた。8時なら驚くことはない。デ
ィナーは、ボーデンのところでは、もう、終わっているだろう。その上、
昼のランチは軽く済ませてから、ずっとテニスをやっていた。
 ソーダ噴水ディスプレイのうしろで、店主がサンドイッチかなにか軽
い食事を用意しているあとを捜したが、見たところ、それはなかった。
 ケイスは、ポケットから25セント硬貨を出すと、それをソーダ噴水
の大理石の上に置いた。
 ガシャンという音がして、店主がみがいていたグラスを落とした。店主
は、分厚いレンズの奥の目を見開いて、こわがった。彼は、そこに立った
まま体を硬直させ、頭を後ろから前へ回転させ、店の一方のはしから端へ
見渡した。グラスを落として割ったことは、気にしてないか気づいてな
いように見えた。タオルも、彼の指から落ちた。
 それから、彼は、手を慎重に伸ばして、硬貨をおおい、拾いあげた。
ふたたび、両方向を見て、店内にいるのは、自分とケイスだけなのを確
認した。
 それから、やっと、硬貨を見た。両手でカップ状にシールドした深い

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底にある硬貨を、目を近づけて見た。それをひっくり返して、裏側も観
察した。
 彼の目は、驚きながらもうっとりしつつ、ケイスを見た。
「美しい!」と、彼。「まったくすり減ってない。しかも、製造は、1
928年」声は、ささやきに変わった。「しかし、だれが送って来た?」
 ケイスは目を閉じて、また、開いた。彼か店主、どちらかが、どうか
してるに違いない。彼は、別の可能性、ある場所から別の場所へ、突然、
瞬間移動が起きて、LAボーデンが電話帳から消えたり、電話会社の記
録からも消えてしまったということは、考えなかった。
「だれが送って来た?」と、店主。ふたたび、いた。
「だれからも」と、ケイス。
 背の低い店主は、ゆっくり笑った。「言いたくないらしい。Kに違い
ない。違ってても、気にしないで!オレの言い値は、それに、1000
クレジット出す!」
 ケイスは黙っていた。
「1500」と、店主。彼の目は、とケイスは考えた、スパニエルみた
いだ。空腹のスパニエルの目が、骨を見つけて、跳びついたところ。
 店主は、深く息をついた。彼は言った。「それなら、2000、それ
よりもっと価値があることは知ってるが、出せるのはそこまで、オレの
ワイフが━━━」

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「いいだろう」と、ケイス。
 硬貨をつかんでいた手は、店主のポケットへ、まるでプレーリードッ
グが穴へ飛び込むように、飛び込んだ。グラスの破片を踏んで割れる音
がしても気にもせず、店主は、カウンターのはしのキャッシュレジスター
に行くと、キーを打った。ガラスの窓に、『準備中』が掲示された。店
主は、また割れたグラスを踏みながら、戻って来ると、札束を数えるの
に夢中だった。
「2000」と、彼。「これが意味するのは、今年予定している休暇の
一部をあきらめなきゃならないということ。しかし、それだけの価値は
ある。オレは、ちょっとイカれたようだ!」
 ケイスは、札束を持ち上げて、一番上の1枚をよく見た。真ん中に見
慣れたジョージワシントンの肖像画があった。すみの数字は、100、ワ
シントンの長円形の肖像画の下に、100クレジットと書かれていた。
これはバカげている、とケイスは考えた、ワシントンのは、ここでは
事情が異なるのでなければ、1ドル紙幣専用だ。
 ここ?ここは、なにを意味する?これは、緑の紙幣で、ニューヨーク、
USA、1954年。電話帳もそうだった。ジョージワシントンの
そうだった。
 もう一度よく見て、印刷をもっと読んだ。アメリカ合衆国、連邦準備
紙幣。

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 それは、新札でなかった。すり減るほど流通していた本物だった。馴
染みのある細いシルクの糸が見えた。シリアル番号は青のインク。
右に、1945年発行、大蔵省秘書官というきれいなタイプの上に、サ
インのコピー、フレッドMビンセン。
 ゆっくりと、ケイスは薄い札束を2つに折って、コートのポケットに
入れた。
 顔を上げると、店主と目が合った。厚いレンズの奥から、心配そうに
彼を見ていた。
 店主の声は、目と同じくらい心配そうだった。彼は言った。「大丈夫
かい?あんた、当局の者じゃないよね?つまり、もしそうなら、すでに
オレに収集の疑いを持った。いつでもオレを逮捕できるし、それで終わ
らせてくれ!つまり、オレはチャンスをもらって、それを逃したら、疑
いのままオレを放っておくのはおかしいだろ?」
「いや」と、ケイス。「大丈夫だ。そう思う。コークのお代わり!」
 今度は、少しして、店主が大理石カウンターにグラスを置くと、コー
クはすべり出て来た。また、店主の靴がグラスの破片を踏んだので、彼は
済まなさそうにケイスに笑い、すみからほうきを出してきて、カウンター
の後ろをき始めた。
 ケイスは、コークをすすりながら考えた。頭の中のことを、事象のつ
むじ風と呼ぶかどうか。それは、おもちゃの風車にかざぐるま乗るようなもんだ。

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 店主がそうじを終えるまで、見ていた。
「聞いて!」と、彼。「いくつかきたい、あんたが変に思うかもしれ
ないようなことを。く訳は、ちゃんとある。それらに答えてくれる、
どんなに変に思っても?」
 店主は、注意深く彼を見た。「どんな質問?」彼は知りたがった。
「そう、じゃ、今日の正確な日付けは?」
「1954年6月10日」
「AD?」
 店主の目は大きくなったが、答えた。「確かに、AD」
「ここは、ニューヨーク州のグリーンビル?」
「イエス、あんたが知りたいのは━━━」
 ケイスは言った。「オレがく。州に2つグリーンビルはない?」
「オレの知る限りない」
「この近くに広大な別荘を持っている、雑誌社のオーナーのLAボーデ
ンという男を知らない?」
「知らない。このあたりの、すべての人を知ってるわけでない」
「彼が出版している、雑誌のボーデンシリーズを知らない?」
「そう、それなら、売っている。今日、何冊か、新しいのが入った。7
月号が、そこのスタンドに置いてある」
「あと、月ロケット。今夜は、着陸する?」

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 店主は、混乱して、まゆにしわを寄せた。「言ってる意味が分からな
い。今夜は、着陸する?毎晩、着陸している。今では、ふつうだ。毎分、
お客を迎えるし、中には、ホテルへ泊まるのもいる」
 答えは、その質問までは、そんなに悪くはなかった。ケイスは、目を
閉じて、数秒間、閉じたままにしていた。目をあけると、背の低い店主
は、まだ、そこにいて、彼を心配そうに、のぞき込んでいた。
「あんた、大丈夫か?」と、店主。「つまり、病気かなにかでは?」
「オレは、大丈夫」と、ケイス。自分がほんとうのことを言ってると願
った。もっときたかったが、それもこわくなった。なにか、安心させて
くれるものが欲しかった。それがなにか分かった気がした。
 スツールを降りて、マガジンラックへ歩いて行った。最初に、『パー
フェクトラブストーリー』を見つけて、手に取った。表紙の娘は、編集
者のベティハードレイを思い出させた。ただ、ベティほどは美人ではな
かった。編集者が、表紙の娘よりも美しい雑誌って、いくつあるのだろ
う?たぶん、1つだけだ。
 しかし、ベティの夢を見ている場合でなかった。心から、彼女を断固
として追い出した。自分の雑誌の『ビックリストーリー』を捜した。見
つけて、手に取った。
 7月号の馴染みのある表紙、まったく同じ━━━
 では、ない?表紙の絵は、まったく同じシーンだった。しかし、アー

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ト作品に、わずかな違いがあった。もっと良くなっていた。鮮やかさが
増した。フーパーの作品だったが、フーパーが高度なレッスンを受けた
ように見えた。表紙の娘は、透明な宇宙服に身を包み、表紙絵の校正で
見た時よりも、もっと美しくなっていた、ずっとセクシーになっていた。
さらに、彼女を追うモンスターは━━━
 ケイスは、身震いした。
 全体的な構成は、同じモンスターだが、微妙な違い、おそろしい違いが
あった。それに指を触れられなかった。指を触れたいとは思わなかった。
石綿手袋をはめていてもイヤだった。
 フーパーのサインがそこにあった。モンスターから、目を離すことが
できて、やっと気づいた。Hが小さく湾曲して特徴的なサインが、彼の
作品のすべてにあった。
 それから、下の右端に、ロゴで値段があった。それは、20cでなか
った。
 2crだった。
 2クレジット?
 ほかにあり得る?
 ゆっくりと、注意深く、彼は2冊の信じられない雑誌を、さっき『パ
ーフェクトラブストーリー』も2crだと確認した、丸めて、ポケット
に入れた。

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 ひとりでどこかへ行って、気違いじみた群衆を離れて、この2冊の雑
誌を、一語一語、ゆっくり堪能したかった。
 しかし、まず、2冊の支払いをして、それから、ここを出た。それぞ
れ2クレジットなら、2冊で4クレジット。しかし、4クレジットって、
いくら?店主は、25セント硬貨に、2000クレジット払った。しか
し、これはほんとうの基準でない気がした。25セント硬貨は、なんら
かの理由で、彼からそれを買った男にとって、希少で、高価な対象だっ
た。
 そう、雑誌は、いい基準になる。それらの価値が、近似的に、クレジ
ットでもドルでも同じならば、2クレジットは、少なくとも、大雑把に、
20セントに一致する。そして、それが正しいなら、店主は、彼に、少
し計算すれば分かるが、25セント硬貨に対して、200ドル支払った
ことになる。なぜ?
 ソーダカウンターに戻ったとき、ポケットの小銭入れを、ガチャガチ
ャ言わせていた。手で硬貨の中から、50セント硬貨を見つけた。店主
は、これを見せたら、どんな反応を?
 彼は、そんなことをすべきじゃなかった。もっと、注意すべきだった。
しかし、彼の雑誌の表紙が、似て非なるものだったショックが、彼を少
しハイにさせていた。
 なに気なく、50セント硬貨を大理石のカウンターへ投げた。「雑誌

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を2冊分」と、彼。「それと、あんたが作ってくれたコーク2杯分」
 店主は、硬貨に手を伸ばした。手がひどく震えたので、硬貨のへりをつ
かめなかった。
 突然、ケイスは自分を恥じた。そんなことすべきじゃなかった。さら
に、そのことが、早くここを出て、雑誌を読みたいという、しゃべりに
つながった。
 彼は、無愛想ぶあいそうに言った。「取っておいて!25セントと50セント硬
貨どちらも、その代金として!」彼は、さっと振り返ると、店の外へ急
ごうとした。
 走り出そうとして、それで止まった。
 1歩踏み出して、凍った。なにかが、ドラッグストアのあいたドアか
ら向かって来た。なにかは人間ではなかった。ずっとずっと人間からは
離れていた。
 なにかは、背丈が、7フィートをゆうに越えていて、ドアは身をかが
めないと通れず、手と足と顔を除いて、全身が、明るい紫の毛皮におお
われていた。その部分は、やはり、紫だったが、毛皮の代わりに鱗でうろこ
おわれていた。目は、平たい白ディスクで、瞳孔がなかった。鼻はなく、
歯はあった。多くの歯を持っていた。
 ケイスが凍ったように、立ちつくしていると、背後から手で腕をつか
まれた。店主の声が、突然、荒々しく、金切り声で、叫んだ。「194

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3年製の硬貨!やつは、1943年製の硬貨をくれた!やつは、アルク
トゥルスのスパイだ!やつを捕まえろ、ルナン!やつを殺せ!」
 紫のものは、ドアを入ったところで、一度止まった。今、金切り声を
出したが、ピッチがほとんど超音波だった。太い紫の腕を広げると、8
フィートあった。ケイスには、ガルガンチュアに襲われた悪夢を見てい
るみたいだった。紫の口から、2インチはあるきばが出ていて、口をひら
くと、緑の洞窟どうくつだった。






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 店主は、「殺せ!殺せ!ルナン!」と叫びながら、ケイスの背中に
い上がろうとした。手はケイスののどに掛かって、窒息させようとした。
 しかし、ケイスは、前から来るものを見て、店主のことは気にもせず、
振り返って、別の方向へ走り出し、店主を振り払って、裏のドアから逃
げた。店の裏にドアがあったことは知らなかったが、あったに違いない。
ドアは、1つにすべきだった。




        3 見たら殺せ
 
 ドアはあった。
 ドアを通るときに、なにかが背中にツメを立てた。引っ張って逃れた
が、コートが裂ける音がした。ドアをバタンと閉めると、苦痛の叫び声
が聞こえた。人間ではないものが、背後に迫っていた。だが、謝ろうと
して振り返りもせず、走った。
 半ブロック先に行くまで、振り返らなかった。背後で拳銃の音がして、
突然、痛みを感じた。まるで、真っ赤な引き棒が、腕をかすめたかの
ように。

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 そのとき、1秒だけ、後ろを振り返った。紫のモンスターは、まだ、
追って来ていた。今出て来た、裏のドアとケイスまでの中間あたりにい
た。長い足にもかかわらぜ、モンスターはゆっくりと不格好にしか走れ
なかった。明らかに、簡単においてけぼりをわせられた。
 紫のモンスターは、武器を持ってなかった。ケイスの肩をがした弾
丸は、背の低い店主が撃ったものだった。手に、旧式の大きなリボルバ
ーを持って、引き金に指を掛けて、こちらをねらっていた。
 2つのビルの間に飛び込んだとき、また、銃声がした。弾丸は、彼に
当たることなく、過ぎて行った。
 ビルとビルの間で、袋小路にはまったのではないかと、一瞬、心配に
なった。突き当りは、なにもないレンガの壁だった。高すぎて、登れな
かった。しかし、そこまで行くと、両側のビルに、それぞれドアがあっ
た。1つのドアは、半分、いていた。閉じてるドアにはれもせず、
急いで、いてるドアに入り、閉めて、後ろ手に鍵を掛けた。
 廊下の薄暗がりに立って、ハァハァ言いながら、まわりを見た。通り
側には、上り階段があった。他方には、また、ドアがあり、明らかに、
路地へ通じていた。
 突然、彼が今、入って来たドアを叩く音がして、興奮した声が聞こえ
た。
 ケイスは、後ろのドアへ走って、そこを通って、路地へ出た。ビルの

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間を走って、正面に、つぎの通りが見えた。歩道に近づくとペースを落
とし、ふつうのペースで歩いた。
 メインストリートに出られそうな方向へ向かったが、あと半ブロック
のところでためらった。かなり混んでいて、人が多かった。
 人ごみの中は、安全なのか、危険なのか?彼は、かどから10歩あまり
先の木の影に立って、見ていた。
 一瞬、ふつうの小さな町の、ふつうのメインストリートの人混みを見
ている気がした。そのとき、手に手を取って、2頭の紫モンスターが通
り過ぎた。どちらも、ドラッグストアで彼を襲ったやつより、少し大き
かった。
 モンスターは、十分、奇妙だったが、もっと奇妙なことがあった。彼
らの前後を歩く人々が、まったく注意を払わなかったことだ。彼らが、
どんな姿をしていても、受け入れられていた。彼らは、ふつうで、ここ
に、受け入れられていた。
 ここ?
 また、あの言葉だ。ここは、どこ?なに?いつ?
 SF雑誌の表紙から、いやらしい目つきで、こっちを見ている最悪の
ベムよりもっとおそろしいエイリアンが、許されている、ここは、なんと
ファマドユニバースであることか!
 25セント硬貨に200ドル払ったくせに、50セント硬貨を見せた

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だけ彼を殺そうとした、ここは、なんとファマドユニバースであること
か!だが、それらクレジット紙幣の肖像画はジョージワシントン、今日
の日付も今、そしてラッキーなことに、ポケットには、丸めた、少し違
う、今月号の『パーフェクトラブストーリー』と『ビックリストーリー』
が、まだ、入っていた。
 ぜんそく気味のモデルTフォードの世界って、宇宙旅行?
 宇宙旅行は、あるに違いない。あの紫のものには、地球上では決して
進化し得ない━━━ここが、地球として。そして、店主に、月ロケット
のことをくと、「毎晩、着陸している」と、言った。
 それから、店主が紫のものに彼を攻撃させる前に叫んでいたのは、
「やつは、アルクトゥルスのスパイだ!」しかし、それはバカらしい。
まだ、モデルTフォードを使っている技術が、月への旅行は完成できて
も、アルクトゥルスへは無理だ。その言葉を、誤解しているのでは?
 また、店主は、モンスターを、ルナンと呼んでいた。正式な名前なの
か、あるいは、ルナの住人を指すニックネーム?つまり、月の住人?
「毎晩、着陸している」と、店主は言った。「今では、ふつうだ。毎分、
お客を迎える」
 明るい紫の7フィートの背丈せたけのお客?
 急に、ケイスは、肩をケガしていたことを思い出した。上腕がヒリヒ
リして、刺すような痛みがあった。見ると、スポーツジャケットのすそに、

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血がまっていた。血は、薄暗がりで見ると、赤よりは黒に近かった。
服は、弾丸を通ったところが裂けて、みぞができていた。
 出血を止めるために、傷の処置をする必要があった。
 警官を捜したが、歩いてなかった。(ここに警官はいる?)あきらめ
て、ほんとうのことを言う?
 ほんとうのことって?
 彼が、ほんとうのことを言うなら、こうなる。「あんたたちは、みん
な、間違ってる!ここは、USA、地球、グリーンビル、ニューヨーク、
6月、1954年、そう━━━しかし、今夜これから、着陸する実験的
なロケットを除いて、まだ、宇宙旅行はない。ドルが通貨で、クレジッ
トじゃない。いくらそこに、フレッドMビンセンのサインがあろうとも、
ワシントンの肖像画があろうとも━━━そして、あの紫のモンスターが
メインストリートを歩いているなんて、ここではあり得ない。LAボー
デンという名前の男が、あんたの方がオレよりずっとうまく彼を見つけ
られる━━━オレが誰かを説明してくれる。そう、望む」
 不可能だ、もちろん。彼が見たり聞いたもの、それを信じられるのは、
ここには、たったひとりしかいない。名前は、ケイスウィントン、彼は、
自分から、一番近くの病院に入ろうとする。
 いや、だめだ。彼は、まだ、医師に、まったく信じられないストーリ
ーをしゃべりに行けない。まだ、だめだ、とにかく。なにが起こってい

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て、ここがどこなのか、それをもっとよく知るには、もう少し時間がい
る。
 どこかで、数ブロック先、サイレンが聞こえて来た。やつらは、近づ
いて来た。
 サイレンが意味するものが、ここでも同じなら、ずっと馴染みのある
宇宙で、警察の車で、彼を追って来ているのだろう。
 コートに血がある事実から、ほかに理由がなければ、メインストリー
トは通らないと決心した。急いで、静かな脇道へそれた。もう一つの路
地を抜けて、できるだけ影に沿って、メインストリートまで数ブロック
を維持した。
 緊急車両が、サイレンを鳴らしながらかどをまわったとき、彼は、別の
路地の影に身を隠した。
 それは、通り過ぎて行った。
 彼らは、彼を捜しているのかもしれないし、そうでないのかもしれな
いが、リスクはあえて犯さない方がいい。彼は、どこかホテルを捜さね
ばならなかった。すそに血があることを、長い間、気づかなかった。今、
思い出した。コートの背中も、紫モンスターに引き裂かれていた。
 通りの向こうに、『空室あり』という看板があった。室を借りられる
のか、やってみるべきだろうか?ひじを伝って血が流れている感覚は、そ
うすべきだと言っていた。

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 誰も来ないのを確認してから、通りを渡った。看板のあるビルは、貸
家と安ホテルの中間のように見えた。舗道に接した、レンガ造りのビル
だった。彼は、ドアのガラスを通して、中を見た。
 小さなロビーのデスクに、事務員はいなかった。デスクのすみに押しボ
タンがあって、『用があれば押して!』と紙に書かれていた。彼は、ド
アをできるだけ静かにあけて、同じように、閉めた。デスクにつま先立
ちで行くと、後ろの書棚を調べた。箱の列があり、中には郵便や鍵が入
っていた。
 注意深く、周りを見て、デスクに寄りかかり、一番近くの箱を取り出
した。201号室だった。
 また、周りを見た。誰も見てる者はいなかった。
 階段まで、つま先立ちで行った。階段はカーペットが敷かれ、きしみ
音はしなかった。もっといい室の鍵は取って来れなかった。201号室
は、階段のすぐ隣だった。
 室に入ると、鍵を掛けて、明かりをつけた。201号室の住人が、3
0分、帰って来なければ、チャンスはある。
 コートとシャツをぐと、傷を調べた。まだ痛むが、感染しなければ、
危険はなかった。傷は、かなり深かったが、出血は、すでに弱まりつつ
あった。
 201号室の住人はシャツを持っていることは、ドレッサーの引き出

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しを捜して明らかだった━━━幸運にも、彼のサイズと0・5サイズ違
うだけだった━━━それから、今、いだばかりのシャツを引き裂いて、
包帯として使って、腕をぐるぐる巻きにして、出血があってもゆっくり
ひたるようにした。
 それから、ドレッサーから暗いブルーのシャツを見つけて、自分のが
白だったので逆に暗い色にして、ラック棚からネクタイも見つけた。
 クローセットを捜すと、3着のスーツがるされていた。自分の明る
い茶のスーツと逆に、暗いオックスフォードブルーのスーツを選んだ、
コートは、どうしようもなく引き裂かれ、血がみ込んでいた。クロー
セットには、ストローハットもあった。最初、大き過ぎる気がしたが、
紙を丸めて、汗止めバンドにくと、ちょうどよかった。完全に服を変
え、ハットもかぶって━━━前はハットがなかった━━━店主に、遠くの
通りから見つけられる心配がなくなった。そして、警察は、破れた茶の
スーツの男を捜すだろう。店主は、そのコートの破れを見逃さないだろ
う。
 彼が取ったものの価値を、すばやく計算し、換算して、500クレジ
ットを机の上に置いた。50ドルあれば余るだろう。スーツが主な値段
で、高くも新しくもない。
 自分の服は、包帯として、クローセットにあった新聞も巻いた。彼が
どれほど読みたかったか知れない新聞、どんなに古かろうが、ここを出

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て、安全な場所に行ったら、真っ先に読もう!ここでは、室の住人がい
つ帰って来るか分からない。
 ドアをあけて、耳を澄ました。階下の小さなロビーからは、なにも聞
こえて来なかった。彼は、来るときと同じに、できるだけ音がしないよ
うに、降りて行った。
 ロビーで、今、ベルを鳴らして、ふつうに室を借りようか迷った。だ
めだ、と彼は決めた。ここでは、だめだ。事務員は、彼が、オックスフ
ォードブルーのスーツやストローハットをけて、包帯の束を運んでい
ることに気づくだろうし、夜になって、そうした衣類の持ち主が帰って
来て、なにがなくなったかを事務員に話せば、彼はすぐに2つの事実を
結び付けるだろう。
 ドアを出て、通りを歩いた。すぐには気づかれないような場所、しば
らくは安全な場所に着いたら、すぐに包帯の束を取り出そう。誰かに話
し掛けたり、常識内でおとなしくしていれば、安全だ。常識を破ること
は、ロープに寄り掛かるまでは、ずいぶんたやすかった。1943年製
の50セント硬貨をあげれば、スパイとして殺されそうになる。店主は、
はっきりと、アルクトゥルスのスパイだ!と言った。それなら、ふつう
の会話の中にもあるかもしれない、別のとし穴を、簡単に推測できる。
グリーンビルまで乗せてくれた男とは、ほとんどしゃべらなかったこと
に、感謝したい。確かに、遅かれ早かれ、彼は、悪い常識はずれに出会

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っていただろう。
 彼は、今、いつもそうだった感覚を呼び覚まして、信頼のおけるビジ
ネスマンのふりをしながら、メインストリートに向って歩いた。メイン
ストリートの手前のかどにあるゴミ箱に、腕に巻いていた服の束をはずし
て、捨てた。
 彼は、自分の見た目が良くなったことから、あえて、夜のためにホテ
ルを捜すことに決めた。そこが見つかったら、ポケットにある2冊の雑
誌を、楽しみながら読もう。彼には予感があって、2冊の雑誌をよく調
べれば、なにがどうなっているのかを知る手掛かりが得られるはずだ。
 災害が彼に降り掛かって来たドラッグストアとは、逆の方向に向かっ
て、歩いた。紳士用の装身雑貨店を過ぎ、スポーツ用品店を過ぎ、2か
月前にニューヨークで見た映画をやっている映画館を過ぎた。すべてが
ノーマルでふつうに見えた。
 一瞬、すべてはノーマルでふつうだったのではないか、という疑いを
持った。違いを想像しようとした。たぶん、店主の頭がおかしくて、す
べてのことは、合理的な説明がつくのだろう、紫モンスターでさえも。
 そのとき、正前に新聞のラックが置かれた、ニューススタンドが見え
た。グリーンビルの地方新聞が2誌ともあり、ニューヨークの新聞も置
かれていた。すべてが、ごくふつうに見えた。見出しを、たまたま、見
てしまうまでは。それには、こうあった。

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    アルクトゥルス火星を攻撃
      カピ破壊
    植民地は不意をつかれた
      地球防衛軍報復を誓う
 
 近づいて、日付けを見た。手のひらより馴染みのある活字の、ニュー
ヨークタイムズの今日付けだった。
 ラックから1部取って、スタンド店員に100クレジット出すと、9
9クレジットおつりが来た。彼が持っていた紙幣は、貨幣単位を除いて、
すべて100クレジットだった。新聞をポケットに押し込んで、急いだ。
 数軒先に、ホテルがあった。チェックインでは、サインするときに、
ペンが手につかなかったふりをして、2回ためらい、ほんとうの名前と
住所を書いた。
 ベルボーイはいなかったので、受付は、鍵を直接、手渡しして、室が
どこか説明した。2階の廊下の正面突き当りだった。
 2分後に、ドアを閉めて、後ろ手で鍵を掛け、期待の息をはずませて、
ベッドに座った。ドラッグストアで危険な目にあってから初めて、彼は、
ほんとうに安全を感じた。ポケットから、新聞と雑誌を取り出して、ベ
ッドに並べた。それから、立ち上がり、コートをるし、ハットはハン

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ガーに掛けた。
 ドアの横の壁の上に、2つのノブとダイアルが、6インチちょっとの
服の循環エリアになるように注意して配置した。明らかに、服がスピー
カー出力をカバーすれば、組み込みラジオを形作った。
 加減抵抗器に見える、実際、そうである、ノブを回した。かすかな、
ハム音がスピーカーから聞こえて来た。チューニングダイアルを回して、
局がクリアで力強くなるまで、デューニングダイアルを回した。それか
ら、ボリュームを回して、一番低くした。いい音楽が聞こえてきた。ベ
ニーグッドマンのようだ、どの局だか分からないが。
 ベッドに戻って、リラックスするために靴をぎ、枕をたたいて、ベッ
ドの頭の部分に置いた。最初に、自分の雑誌『びっくりストーリー』を
取り上げた。
 また、表紙を、驚きをもって、よく調べた。表紙は、信じられないく
らいに同じ絵だったが、信じられないくらいに違う絵だった。
 しばらく、それを眺めていたが、それほど突然ではない考えがいて
きて、すぐに目次のページを開かせた。一番下に、きれいにタイプされ
ていた。こんなふうに。
    ボーデン出版社発行、LAボーデン、編集及び出版。
    ケイスウィントン、編集長━━━
 自分の名前を見つけるまでは、息を止めていたことに気づいた。ここ

96

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がどこであれ、彼には、ちゃんと仕事があった。ボーデン氏も、ここに
いたが、彼の夏の別荘に、なにが起こった?今夜の7時数分過ぎに、文
字通り、彼の下から落ちて消えてしまった。
 別の考えが浮かんで、ラブストーリー本をつかみ上げ、もう少しで破
ってしまうところだったが、目次のページを開いた。そう、ベティハー
ドレイは、編集長だった。しかし、困ったことがあった。雑誌が、ボー
デン出版社から発行されていることだ。この号、7月号は、フェアリー
社の発行と印刷されているはずだった。それは、単に、ボーデンがその
雑誌を買い取った日付だけの問題だった。8月号の発行でさえ、まだ、
フェアリー社のはずだった。しかし、これは些細ささいなことだった。
 重要なことは、ここが、なんとファマドユニバースは、ベティハード
レイが、ここにいるということだった。
 ホッとして、ため息をついた。ベティハードレイが、ここにいるとい
うことは、たとえ、月の紫モンスターがいるとしても、そんなに悪いと
ころでないようだ。それに、もしも彼、ケイスウィントンが、まだ、大
好きなサイエンスフィクション雑誌『びっくりストーリー』の編集者な
ら、まだ、仕事はあって、食べて行けるのだ、ドルの代わりにクレジッ
トで支払われることは、それほど気にならなかった。
 ラジオ放送は、突然、中断した、まるで、だれかが、レコード針を引
き上げたかのように。声が割り込んだ。

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「特別ニュース公報、グリーンビルとその周辺の市民へ2度目の警告。
30分前のアルクトゥルスのスパイは、まだ、つかまってない。すべての
鉄道駅、道路、宇宙ポートは閉鎖され、1軒ごとの捜索が始まった。全
市民は、警戒するよう要求されている。
 全員武装して、見たら殺せ!間違って撃つことはあっても、スパイを
逃して、なん百万人の地球人の命が奪われるよりは、100名の市民の
命が奪われる方がましだ。
 少しでも怪しかったら、撃ち殺せ!
 スパイの特徴は━━━」
 息をひそめて、ケイスウィントンは、その特徴を聞いた。、
「身長、約5フィート9インチ、体重、160パウンド、茶のスーツ、
白のスポーツシャツ、カラーなし、ハットなし、目は茶、髪は、ウェー
ブした茶、だいたい30━━━」
 彼は、息をゆっくり吐いた。服を変えたことは、バレてないようだ。
傷については言ってなかった。店主は、自分が発砲した1発がヒットし
たことに気づかなかったようだ。
 身体的特徴は、かなり近かったが、どんな服で、また、上腕に包帯を
巻いていることが知られてなければ、それほど危険はなかった。
 もちろん、彼が盗みを働いた室の住人が帰って来て、自分のオックス
フォードブルーのスーツとストローハットが盗まれたことを報告すれば、

100

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危険性はかなり増すだろう。
 損失を補うために500クレジット置いて来たにもかかわらず、もしも
放送を聞けば、それらを報告するだろう。彼は、カネを置いて来たこと
を、今、後悔した。ふつうのドロボーだったら、自分が盗んだものを補
うカネを置いて来ることはないので、そうしたことは、より当局の注意
を引くことになった。彼は、今、悟ったが、ふつうの室荒らしのように、
もっと別のものも盗むべきだった。スーツケースにあった3着のスーツ
を全部盗んでおけば、当局は、どの服を着ているのか推測するしかなか
っただろう。
 つまり、当局が、その貸室でなにが起こったかを知れば、ふたたび彼
の特徴について、正確な情報を提供できることになる。
 しかし、なんてことだ、彼は、どこへ逃げ込めばいい?見たら、殺せ!
彼は、真剣に、あきらめることを考えた。
 そう、『見たら、殺せ!』命令は、明らかに、彼に自首させることを
目的としていた。ある程度、彼は、死の危険に直面して、説明する機会
も与えられないかもしれなかった、どう説明するか分かったとして。
 道路も駅も監視されていても、ニューヨークに戻って、用事を済ませ
なければならなかった。しかし、ニューヨークはどうなっているのだろ
う?知ってるとおり、それとも別の?
 ホテルの室は、風通しが悪く、暑かった。窓に行って、あけて、立っ

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たまま、下の通りを眺めていた。ふつうの通りで、ふつうの人々だった。
そのとき、3頭の紫モンスターが見えた。手をつないで、劇場ロビーか
ら出て来て、通りを渡った。だれも、やつらに注意を払わなかった。
 突然、彼は窓から下がった。それは、紫のものの1頭に、見覚えがあ
って、ドラッグストアで見たやつと同じだった。モンスターは、すべて、
彼には同じに見えた。しかし、やつらが人間に慣れてきたら、やつらが
そうあるように、彼を見た1頭は、明らかに、彼をふたたび認識するだ
ろう。
 紫モンスターの光景は、突然の思い付きに、彼を身震いさせた。オレ
は正常?あるいは、おかしい?もしもそうなら、彼が見聞きしたものは、
大学の精神異常の授業で扱われるような、特別な症例になる。
 もしも彼がほんとうにおかしいなら、彼が今いる世界もまぼろしにな
って、あるいは、彼の記憶も?
 彼の心から、考えられるように、世界の間違った記憶を排除してみよ
う。宇宙船をやめて、月から来る紫モンスターもなし、クレジットでな
くドル、アルクトゥルスのスパイもなし、火星の地球植民地もなし。
 すると、その世界は、彼がずっと慣れ親しんできた生活の場、慣れ親
しんできた世界、記憶通りの世界になる。彼の心のまぼろし?
 しかし、もしも、これがほんとうの世界で、彼の記憶、今夜の7時ま
での記憶が間違っていたら、それらに彼は対応してゆける?彼は、アル

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クトゥルスのスパイ?それは、ほかのなによりも、もっともあり得ない
気がした。
 突然、ドアのすぐ外の廊下に、数人の重い足音がした。大声で命令的
に、ドアがたたかれた。
「警察だ!」と、声。





        4 マド・マンハッタン
 
 ケイスは、深いため息をついて、急いで考えた。ラジオがさっき、1
軒ごとの捜索が始まったと言っていた。たぶん、これは、その捜索だ。
ホテルにチェックインした者を、最初に、調べて行く。チェックインの
時間を別にすれば、疑われるようなことはない。
 捜索されて、逃げなければならないようなものは?ある、彼のカネだ。
店主がくれたクレジット紙幣でないもの、ドルの通貨単位の財布や小銭
入れだ。
 急いで、ポケットからおつりの小銭、25セントや10セント、1セ

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ント硬貨を取り出した。札入れから紙幣━━━10ドルが3枚に、数枚
の1ドル紙幣、クレジットでないものを取り出した。
 ドアがまた、たたかれた、少し強く。
 ケイスは、硬貨を紙幣で包み、小さくて硬い包みにして、窓のところ
へ行って、窓から突き出た棚のすみの見えないところに隠した。
 それから深呼吸してから、ドアへ行って、あけた。
 3人の男たちが、ふたりは警察の制服を着て、立っていた。制服のふ
たりは、リボルバーを手に持っていた。もうひとりのグレーのビジネス
スーツの男が、しゃべった。
「ソリー、サー。オレたちは、捜索中、放送を?」と、彼。
「もちろん」と、ケイス。「どうぞ、入って!」
 ケイスがまだ話す前に、男たちは入って来た。警戒しながら。拳銃の
2つの銃口がケイスの腰をねらっていた。ふたりともまったく緊張して
なかった。グレーの男の冷たい疑るような目も、ケイスの顔かららさ
なかった。しかし声は、努めて、礼儀正しかった。「名前は?」
「ケイスウィントン」
「職業は?」
「編集の仕事。『びっくりストーリー』の編集をしている」ケイスは、
ベッドの上にある雑誌を、何げなく身振りでしめした。
 彼をねらっていた銃口のひとつが、少し下がった。たぶん、1インチ

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くらい。笑い顔が、輪から広がって、その後ろに平らな顔があった。
「そうか」と、彼。「あんたは、ロケットトークコーナーの担当者に違
いない。ロッキーティア?」
 ケイスは、うなづいた。
「それなら、たぶん」と、警官。「オレの名前を覚えてる?ジョンギャ
レット、4通手紙を書いて、2通をせてくれた」
 彼は、すばやく、拳銃を左手に持ち替えると、まだ、ケイスをねらっ
たまま、右手を差し出した。
 ケイスは握手した。「そう」と、彼。「中のイラストをカラーにして
くれと言って来た人だね、1ド」すぐに言い直した。「1クレジット、
値段を上げてでも」
 男の笑い顔は、もっと広がって、拳銃を脇で回した。「そう!」と、
彼。「それが、オレ!あんたの雑誌のファンさ、ずっと前から━━━」
「銃をちゃんと上げて、巡査!」と、グレーの男。「注意して」
 拳銃は、また、上がったが、巡査は、ニヤニヤしたままだった。彼は
言った。「この男は大丈夫、警部。もしも、彼が自分の身分を偽ってい
たら、オレが雑誌に送った手紙のことを知ってるはずない」
 警部は、いた。「あんたの手紙は、った?」
「ええ、ま、しかし」
「アルクトゥルスは、記憶力が非常にすぐれている。もしも編集者になろ

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うとするなら、雑誌の過去の号もすべて調べるだろう」
 巡査は、顔をしかめた。「ええ、ま、しかし」と、言って、右手でハ
ットを後ろにずらし、頭をかいた。
 警部は、室のドアを閉めて、それに寄り掛かった。ケイスの顔と巡査
の顔を見てから言った。「しかし、そのアイデアはいい。巡査、ウィン
トン氏が本物かどうか、ってないものを使って、チェックできる?」
 巡査は、前にも増して、困った顔をした。ケイスは言った。「巡査、
最後に送った手紙を覚えてる?約1か月前だったと思う」
「確かに、あんたが言ってるのは、オレが提案した━━━」
「言わないで!」ケイスは、遮っさえぎた。「オレに言わせて!あんたが言っ
たのは、コミックブックが絵をすべてカラーにして、パルプ雑誌より安
い値段でもやって行けるのに、なぜ、カラーにすることも、同じ値段で
はできないのか、理解できない」
 銃口が、また、下がった。巡査は言った。「その通り!警部、オレが
言ったそのままだ。その手紙は、まだ、ってない!この男は本物、そ
うでなければ、知らないはず。できない、でなければ━━━」彼は、ま
た、ベッドの上の雑誌を見た。「それが今月号にってなければ、オレ
は、まだ、それを見てない。今月号は、今日、スタンドに乗ったばかり」
「その通り」と、ケイス。「しかし、あんたの手紙は、ってない!手
に取って、見れば!」

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 ギャレット巡査は、上司を見て、了解を得た。彼は、ケイスを回って
行って、雑誌を手に取り、ページをめくって、末尾のロケットトークコ
ーナーに来ると、目はケイスを見たまま、同時に、読み始めた。
 グレーの男は、うっすらと笑いを浮かべ、肩のホルスターから短銃身
のリボルバーを出して、言った。「銃をしまって、今やってることに集
中しろ、巡査。バークとオレで警戒を続けるから」
 ギャレット巡査は言った。「ええ、警部、サンクス」拳銃をホルスタ
ーにしまった。両手と両目が使えて、雑誌を楽に扱えた。
 読者コーナーをまだ見ながら、ギャレットは言った。「中もカラーを
使った方がいいと思う、ミスターウィントン。そうすれば、ベムがもっ
と引き立つ!」
 ケイスは笑った。「できることなら、そうしたい、巡査。しかしそう
すると、オレたちの本は、他社に勝てなくなる」
 警部は、ふたりの顔を、不思議そうに見た。「なんの話?」と、彼。
「ベムって?本って?雑誌の話じゃなかった?」
 ケイスは言った。「雑誌を本と呼ぶのは、パルプ雑誌の編集や出版で
は、共通の習慣、警部。たぶん、彼らは雑誌は本だと思ってるから。ベ
ムについては、ファンの間のスラッグで、語源は、昆虫の眼をしたモン
スター。ギャレット巡査が見ている表紙にいるのが、ベム」
「よく描かれている」と、巡査。「アルクトゥルスの第3惑星のベムの

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1匹?」
「そのストーリーは、記憶通りなら」と、ケイス。「金星にいるやつ」
 巡査は、心の底から笑った、ケイスが、とてもおもしろいジョークを
言ったかのように。ケイスは、なにがおもしろいのか分からなかったが、
いっしょにニヤリとした。巡査は、ロケットトークコーナーのページを
めくり続けた。
 1分後に、顔を上げた。「ほら、ミスターウィントン、バーグマンが
書いたリードノベルが好きじゃないプロビンスタウンの男の手紙だが、
そんなたどたどしい男のことは、気にしないで!バーグマンは、外部の
作家として、最高さ、たぶん━━━」
「巡査!」警部の声は、氷のようだった。「あんたのフィクションの好
き嫌いを、聞いてるヒマはない。手紙のサインなり見出しだけ見て、今
月号にあんたの手紙があるかどうかだけを見ろ!そんなことに一晩中、
掛けられない!」
 巡査は赤くなって、ページをめくった。
「ない!」彼は1分後に言った。「ここにはなかった、警部」
 グレーの男は、ケイスに笑顔を見せて、言った。「あんたは、大丈夫
のようだ、ミスターウィントン。しかし、ルーチンとして、身分証は?」
 ケイスは、うなづいて、財布を出そうとした。しかし、グレーの男は
言った。「待って、もしよければ━━━」

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 ケイスが気にしようがしまいが関係なく、後ろに回って、手をすばや
く動かして、ケイスのすべてのポケットを調べた。見たところ、財布以
外に、興味を引くものはなかった。彼は、それを取り出して、中身をす
ばやく調べ、返した。
 彼は言った。「オーケー、ミスターウィントン。大丈夫だが━━━」
 クローセットに行くと、ドアをあけ、中を調べた。ドレッサーの引き
出しも調べ、ベッドの下も見て、室じゅうをすばやく、しかし徹底的に
捜索した。
 彼の声には、ふたたび、疑いの感触があった。「荷物がない、ミスタ
ーウィントン?歯ブラシさえない?」
「歯ブラシさえない」と、ケイス。「グリーンビルに泊まる予定はなか
った。しかし、ビジネスが考えていたより、長引いてしまって」
 グレーの男は、捜索を終えた。彼は言った。「煩わわずらして、申し訳ない。
徹底的な捜索が要求されていて、逃げようがなかったもので。そして、
あんたはここで正式に登録された。あんたとギャレット巡査が、いっし
ょに、あんたが誰か証明してくれた。そうでなかったら、もっとチェッ
クすることが多かった。しかし、なんとか」
 彼は、うなづくと、もう一人の制服の男は、拳銃をホルスターに戻し
た。
 ケイスは言った。「まったくオーケー、警部。疑いが晴れて、よかっ

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た」
「あんたは、ここではオーケーだが、スパイがつかまったわけでない。グ
リーンビルからは出てないだろう。蚊一匹抜けられない非常線を張って
いる。アルクトゥルスが捕まるまでは、非常線を維持する」
「ニューヨークに戻るのに、問題は?」と、ケイス。
「そう、駅では、かなり細かい検問がある。通してもらうよう言うこと
はできる」彼は笑顔になった。「特に、警官の中に、あんたのファンを
見つけられれば」
「それは、ありそうもない、警部。朝までに戻りたいと考えている。そ
れだとオフィスに戻るのが遅すぎるので、気が変わって、今夜、戻るか
もしれない。かなり疲れていたので、ここに泊まろうとしたが、今、気
分は良くなった。ニューヨーク行きのつぎの列車は?」
「9時半だと思う」と、警部。自分の腕時計を見た。「あんたは間に合
いそうだが、すぐに、検問を通してもらえるかは分からない。そのつぎ
の列車は、朝の6時」
 ケイスは顔をしかめた。「9時半の列車に乗りたい、警部、たとえば、
駅の検問にいるだれかに電話して、オレが捕まったり、列車に間に合わ
なかったりしないように保証してくれることは、可能?あるいは、行き
過ぎたお願い?」
「いや、できると思う、ミスターウィントン。ここから、電話しよう」

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               ◇
 
 10分後、ケイスは、駅に向かうタクシーの中にいた。30分後、彼
は、あまり混んでないニューヨーク行きの列車にいた。
 彼は、深い安堵あんどのため息をついた。最悪の、差し迫った危険は去った
ようにみえた。確かに、彼は、ニューヨークでは安全だろう。非常線を
通れたことが大きかった。それだけでなく、警官が去ってから、窓の敷
居に隠したカネを財布に戻した。警部の電話は、相手が誰だろうと、駅
の検問にいる警察官に、彼がすでに確認された身分証を見せれば、ふた
たび、捜査の対象にはしないことを約束してくれた。
 そして、なにがどうなっているのか分かるまでは、これらの紙幣や硬
貨をあきらめたくなかった。それらは、たぶん、危険なものだったが、
一部は価値があった。店主は、1枚の硬貨に200ドルに相当するもの
をくれて、ほかの者はもっと高い値を付けるだろうと言った。なぜ、店
主は、25セント硬貨が、彼が支払ったよりももっと価値があると言っ
たのだろう?
 しかし、50セント硬貨は━━━彼は、心の中で、肩をすくめた。推
測は、意味がない。なにがどうなっているのか分かるまで、待つしかな
い。そして、しばらくは、できるだけ注意することだ。ホテル代と列車

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代を支払ったあと、彼には、まだ、240ドル相当のクレジットが残っ
た。これで、しばらくは、やって行ける。注意すれば、しばらくは。ク
レジットでない紙幣や硬貨は、小さく丸めて、ズボンの時計を入れるポ
ケットに押し込んであるので、買い物で、不注意に間違った硬貨を出す
ことはないだろう。硬貨は、紙幣で固く包まれていて、ガチャガチャ音
がすることはなかった。
 それらを持っていることは、疑いもなく、危険だった。しかし、それ
らの価値よりも、もっと強い理由があった。それらは、彼が正気だとい
う、わずかな希望だった。彼の記憶は、彼の作りごとかもしれない。し
かし、それらの硬貨は、硬い物理的存在だった。それらは、ある意味、
少なくとも、彼の覚えていることは、ほんとうに事実だという証拠だっ
た。彼のポケットの小さなふくらみは、心のよりどころ、安心だった。
 列車の窓の外の景色は、速度を上げて行き、グリーンビルの光はだん
だん小さくなって、ついには瞬いまたたて、田舎の闇に消えて行った。
 少なくとも、この瞬間だけは、彼は安全だった。2時間余りのあいだ、
2冊の雑誌と彼が買った新聞に、ゆっくり、目を通した。
 新聞の見出しは、こうだった。
 
    アルクトゥルス火星を攻撃
      カピ破壊

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 それは、ニュース、大きなニュースだった。注意深く読んだ、カピは、
火星に作られた地球の植民地だった。そこで建設された7つの植民地の
4番目で、1939年に作られた。1番小さい植民地だった。840人
余りの地球人の居住者がいた。全員殺された、と見られている。推定1
50人の火星人労働者と同様。
 ここで、ケイスが分かったことは、地球からの移住者である居住者と
は別に、ネイティブな火星人もいるということだった。ネイティブな火
星人って、どんな?いつもの戦争の速報のような簡単な記事には、手掛
かりとなるものはなかった。たぶん、『ルナン』は、結局、まったく1
つの名前だった。紫モンスターが火星人で、月の住人ではないのだろう。
 しかし、それよりももっと驚く重要なことがあった。記事を読んだ。
 アルクトゥルスの宇宙船1隻が、宇宙防衛ラインを突破し、地球防衛
軍に見つかる前に、1発の魚雷を発射した。彼らはすぐに攻撃し、アル
クトゥルスは恒星間ドライブに切り替えたが、とらえて、完全に破壊した。
 準備は、とニューヨークタイムズは言っている、報復のためになされ
た。詳細は、もちろん、軍事機密だった。
 その論説の中には、多くの人や物の名前が登場するが、ケイスには、
なんのことか全く理解できなかった。よく知っている名前が、全く知ら
ない文脈に登場するのは、奇妙だった。例えば、ドワイトDアイゼンハ

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ワー将軍が、金星部門担当だった。
 この記事の最後は、攻撃されやすい都市の防衛力の増強を提案し、あ
とはケイスウィントンには全く不明のことが書かれていた。良く出て来
るが、全く不明のことは、繰り返し述べられる『全都市の霧中』、何度
か言及のある『裏切り者』と『夜歩き』だった。
 メインの記事は、コラム欄が2つあって、ふつうとは違って、新聞を
前から後ろへ読んで行き、見出しはすべて見て、おもしろそうだったり
変わったストーリーの最小限のところを読んだ。ふつうの生活の詳細と、
驚くほど違いがなく、特に、国内の事柄に関しては、ほとんど違いがな
かった。
 社会欄のニュースは、彼はいつも読む習慣があったので、そこに登場
する名前の多くは分かったし、疑いもなく、認識できた。セントルイス
は、1つのメジャーリーグのトップで、新しいヨークが、もう1つのト
ップだった。それは、彼は覚えていたが、正確なパーセンテージが同じ
だったかどうかは確信がなかった。広告は、みんな馴染みのあるもので、
価格が、ドルやセントでなく、クレジットである以外は、同じだった。
子ども向けの宇宙船や原子力おもちゃはなかった。
 彼は、広告を特によく調べた。住宅事情は、覚えているものより、か
なり良かった。それは、たぶん、『火星への移住』という宣伝文句で売
り出されているアパートや家の供給のせいだろう。セール広告が金星コ

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ロニーだったり、別のものが月のものだったりした。
 1時少し過ぎに、時刻表通りなら、列車は、グランドセントラル駅に
着く。ケイスは、もっと詳細はあとで調べることにして、新聞を丸めた。
まだ読んでない2冊の雑誌が、すごく気になった。
 徐々に、列車が速度を落として駅に入ると、ケイスはいつもと違うな
にかに気づいた。指で数えられないなにか違うもの、その場所の雰囲気
にあるなにか。明かりがなかったわけではなかった。駅には、通常の明
かりはあった。たぶん、彼が覚えているよりも、もっと多くの明かりが
あった。
 また、彼は、乗って来た車両の客が1/4だけで、混んでなかったこ
と、そして、降りるとき、その車両が、客が降りて来る唯一の車両であ
ることに気づいた。すべての赤帽は、仕事を終えて帰っていた。
 ケイスのすぐ前を、背の低い男が、3つのスーツケースを、両手と脇
で苦労して運んでいた。いかにも重そうだった。
「ひとつ持つ?」と、ケイス。
 背の低い男は言った。「ありがたい、サンクス」声には、感謝の気持
ちが込められていた。重いスーツケースの1つをあきらめて、ケイスに
渡した。そして、ふたりは、列車の間のセメントの歩道を降りて行った。
 ケイスは言った。「今夜は、人が少ない?」
「最終列車だからだと思う。そんなに遅くは、走らせるべきでない。家

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に帰れないとしたら、列車に乗る意味がないだろ?そう、朝にいいスタ
ートを切りたいが、長期的になんの意味がある?」
 ケイスは言った。「それほどの意味は」そして、なんの話なのか疑問
に思った。
「昨夜、87人殺された!」と、背の低い男。「少なくとも、それだけ
の死体が見つかった。川になん人入ったのか分かっていない」
「ひどい!」と、ケイス。
「それが、ふつうの平均的な夜。少なくとも、100人が殺される。た
った一晩で!なん人が、路地で薬漬けにされて、殺されないで殴られて
いるか分からない」彼は、ため息をついた。「ブロードウェイさえ、安
全だったときを覚えている」
 彼は、突然、立ち止まり、スーツケースを置いた。「少し休もう」と、
彼。「先に行きたいなら、置いて行っていい」
 ケイスは、運んでいたスーツケースを置くチャンスができて喜んだ。
左肩を負傷していたので、運んでいた右手を替えられなかったのだ。ス
ーツケースの取っ手で、締め付けられていた右手を伸ばした。「別に急
いでない」と、彼。「家に帰るのを、急いでない」
 背の低い男は、すごくおかしいことを言ったかのように、笑った。ケ
イスは、あまり関わりたくないかのような笑いを浮かべた。
「そうさ」と、背の低い男。「急いで帰らなくていい」手で自分の太もも

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をぴしゃりと叩いた。
 ケイスは言った。「うう、しばらくニュースを見てなかった。あんた
は?なにかニュースがあった?」
「ああ、ちょうど1つあった!」背の低い男は、急にこわがって、死ぬほ
ど真顔になった。「国内に、アルクトゥルスのスパイがいる。あんたも
聞いたはず、夕方早くのこと」彼は、少し震えた。
「いや、聞いてない」と、ケイス。「詳細は覚えてる?」
「グリーンビルの北部の町、オレたちも通って来た。覚えてない?列車
のすべてのドアはロックされ、チェックされた者以外、だれも乗れない
ようにした。駅じゅう警官とガードマンでいっぱいだった」
 ケイスは言った。「オレは停まっているあいだ、居眠りしていたらし
い。グリーンビルと言った?」
「そう、グリーンビル。そこで降りないでよかった。駅じゅう大騒ぎだ
った」
「そいつは、なぜ追われることに?」と、ケイス。
「ニセの硬貨を売ろうとしたらしい。アルクトゥルスが偽造した硬貨で、
製造年が間違っている」
「おお」と、ケイス。あのときの50セント硬貨は、それだったのだ。
頭が良ければ、その現在価値やありうる価値にも関わらず、硬貨の残り
は、すべて下水道からなにかに捨てていただろう。さもなければ、たぶ

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ん、彼は、グリーンビルにいたときにそうしたように、窓の敷居に置い
たままにしていただろう。
 いや、だめだ。それは、まずいことになる。もしもそれが発見されれ
ば、彼に辿たどり着く。ホテルの宿帳には、本名を書いたし、幸運にも、別
の理由で、室に来た警官にも、本名を告げた。そう、室の外の窓の敷居
に隠した硬貨が見つかれば、捜索の手は、ニューヨークにいるケイスウ
ィントンに伸びて、どのように入手したのか説明しなくてはならなくな
る。窓の敷居に隠した硬貨を財布に戻すときは、そこまで考えてなかっ
たが、その硬貨で、また、儲けようとしたのは、少し向こう見ずだった
と考えていたが、今、そうしようとしたことが、逆に、いかにラッキー
だったかに気づいて、冷や汗をかいた。
 彼はいた。「スパイをニセ硬貨で発見して、どうやってつかまえる?」
つかまえるだと!」背の低い男は、見るからに、ショックを受けたよう
だ。「だめだ、アルクトゥルスをつかまえることなどできない。殺すだけ
だ。実際、殺そうとした。店主と、近くにいたムーニーが━━━しかし、
どちらも取り逃がした」
「おお」と、ケイス。
「そのせいで、グリーンビルで2・30人殺されたと賭ける!」と、背
の低い男。憂鬱そうに。手をこすり合わせると、2つのスーツケースを
持ち上げた。「あんたが良ければ、このあとは、オレひとりで運んで行

136

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ける」
 ケイスは、もう1つのスーツケースを持ち上げて、ふたりは、駅のロ
ビーへ向かった。
「小屋が残っていることを祈ろう!」と、背の低い男。
 ケイスは、口をぽかんとあけて、そして、閉じた。なにか質問しても、
それが知っていることなら、知らないふりをしなければならないかもし
れなかった。それで、ユーモラスに暗い声で、「たぶん、ないかも」と
言った、それなら、言ったことが間違っていても、ジョークと受け取っ
てもらえるからだ。
 しかし、背の低い男は、うなづいて、曖昧あいまいに同意しただけだった。ロ
ビーの近くに来ると、赤帽がいた。3つのスーツケースを赤帽に渡して
から、ホッとして、ため息をついた。
「小屋?」と、赤帽。「少し残ってる」
「よかった!2つ、お願い!」と、背の低い男。それから、ためらいな
がらケイスを見た。「これは、あんたの分じゃないんだ。まだ、座って
る者たちがいる」
 ケイスは、闇の中を綱渡りしている気がした。小屋を選ぶか、座るの
を選ぶか、どんな意味がある?どちらも、イヤだった。
 彼は、遠慮がちに、言った。「その辺を、ぶらついて来る」
 いくつかのドアを通って、駅のメーンホールに来ると、驚いて、小屋

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を見た。長く、順序良くに並んだ、軍隊ふうの小屋の列があった。列の
あいだを通る廊下を除いて、全体のフロアの驚くほど広い空間を小屋が
占めていた。小屋にいるほとんどが、横になって眠っていた。
 住宅不足が、この悲惨を招いた?いや、違う、それはあり得ない。ポ
ケットにあるニューヨークタイムズの貸家広告の数から言って、あり得
ない。しかし━━━
 背の低い男は、ケイスの肩に触った、たまたま、ケガしてる方だった
ので、ケイスは跳び上がった。背の低い男は、それには気づかず、言っ
た。「ちょっと、待って、ポーター!」と、数歩先に行っている、赤帽
に。
 彼は、ケイスに近づいた。「うう、もしもクレジットが足りないなら、
ミスター、少し貸してあげられるけど」
「サンクス」と、ケイス。「しかし、ただ、走りたいだけ」
「外に出る、ということ?」ホラーと驚きが、男の顔に浮かんだ。
 彼は、また、間違ったことを言うかもしれなかった。それが、なんな
のか分からないが、なぜ、グランドセントラル駅に小屋があるのか、こ
こに泊まるかどうかが、なぜ重要なのか?とにかく、背の低い男から早
いところ遠ざかった方がよさそうだった、彼が疑いを持っていないあい
だに、疑惑が生じる前に。
「もちろん、違う」と、彼。「そんなバカじゃない。ここで会う予定が

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あって、そいつを捜さなくてはならない。たぶん、あとで小屋を借りる。
しかし、今は、眠れそうにない。心配しないで!クレジットを貸してく
れると言ってくれたことを、ありがとう。しかし、たくさん持っている
から」
 質問される前に、急いでその場をあとにした。駅のメインホールの明
かりは、薄暗かった。明らかに、明るい光が彼らの目にギラついて、眠
りをさまたげないようにするためだった。ケイスは、薄暗がりで、行く
方向を判断して、眠っている者たちを邪魔しないように、できるだけ静
かに歩いて行かなければならなかった。42番通りの出口を目指した。
 
               ◇
 
 そこに近づくと、ふたりの警官が、ドアの前に立っているのが見えた。
 しかし、今、止まることはできなかった。彼が近づくと、警官は、見
ていた。警官のいるドアへ、まっすぐ歩いて行った。ここで急に歩く方
向を替えたら、まっすぐ行くよりもっと警官の注意を引いてしまうだろ
う。遠くから見ていて分かったが、ここで外へ出ようとしても、許され
そうになかったので、ガラスから外を見る振りをした。
 なに気なく、歩いてゆくと、ドアはガラスの外から、黒のペンキで塗
られていた。

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 ふたりの警官の大きい方が、ケイスが近づくと話し掛けた。声は、敬
意を払っていた。
「拳銃は、サー?」
「ない」
「外は、かなり危険。あんたにとどまるよう、命令する権利はないが、助
言はできる」
 ケイスは、安心を感じた。こわかったが、ここにいる気はなかった。理
由はなんであれ、グランドセントラル駅で、夜をムダに過ごしたくなか
った。
 しかし、警官の言う意味は、なんだろう?危険?最終列車で夜遅く到
着した、なん千人の者には分かって、彼には分からない危険は、どんな
危険?ニューヨークになにが起こった?
 今、戻るには、彼にとっては、もう、遅すぎた。その上、ぼんやり考
えていたが、状況がはっきりするまでは、どこにいても危険だった。
 彼は、できるだけ、何げなく言った。「すぐ近くだし、大丈夫!」
「それは、あんたの自由だが」と、警官。
 もうひとりは、ニヤニヤしていた。「あんたの葬式を出すことになら
なきゃいいんだが。オーケー、ミスター」彼は、ドアをあけた。
 ケイスは、もう少しで後ずさりするところだった。ドアのガラスは、
外から黒のペンキを塗られていたわけでなかった。外は、黒だった。今

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まで見たことのない、漆黒しっこくの闇だった。かすかな光さえ、どこにもなか
った。駅の薄暗い明かりでは、この黒を切り裂くことなど、まったくで
きそうになかった。下を見ると、開いたドアのはしから、1・2ヤードの
足元の歩道の舗装は見れた。
 そして、外の黒が、少し、ドアから駅へ流れ込んでいて、まるで、闇
ではなく、手でさわれる黒、ガス質の黒のように見えるのは、ただの想
像なのか?単なる明かりの欠如以上のなにかであるかのように?
 しかし、それがなんであれ、彼はその正体を知らないと、認めること
はできなかった。それがどこへ導くとしても、ドアを通って行かなけれ
ばならなかった。
 歩き出すと、ドアは、彼のうしろで閉まった。クローセットの中へ歩
き出したみたいだった。灯火管制を越えた、灯火管制だった。このこと
が、彼は思い出した、ニューヨークタイムズの『霧中』だったのだ。
 見上げたが、星や月らしきものはなかった。グリーンビルでは、少な
くとも、明るい月夜だった。
 ドアの外へ2歩、歩き出して、うしろを見たが、なにも見れなかった。
ガラスの光の面さえ見えなかった。しかし、ぼんやりとは光っていて、
闇へ進んで行っても、こんなふうには見れるはずだった。もちろん、ガ
ラスが、ほんとうに外側から黒のペンキで塗られているのでない限り。
近づいてみると、とてもぼんやりした四角形として見れた。もっと近づ

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くと、手に触れた。それよりもっと離れると、まったく見えなかった。
 1歩、踏み出すと、見えなくなった。ポケットからマッチ箱を出して、
1本った。手を伸ばすと、光のかすかな1点は見えた。目から2フィ
ートでは、はっきり見えた。しかし、それより離れると、もう見えなか
った。
 マッチは燃え続け、指の先まで来たので、下に落とした。歩道かどこ
かに落ちても、燃え尽きたかどうかさえ分からなかった。たぶん、コン
クリートの上で燃え尽きたのだろう。
 彼は、今、駅内の小屋へ戻りたかった。しかし、ふたたび戻るには遅
すぎた。外に注意を集中させた。しかし、なぜ、背の低い男の助言に従
わなかったのだろう?みんなを真似た方が、ずっと安全だった。
 ビルの壁に触りながら、手探りでたどりながら、西に向かって歩き出
し、バンデルビルト通りの角を目指した。目を大きくあけて、黒に集中
しながら、同時に、目を閉じても、同じようにうまくできるようにしな
がら。盲目の男の気持ちが、今、分かった。つえで、見えない歩道をたた
きながらなら、なんとかできそうだった。しかし、目の見えるイヌは、
うまくできそうにない。ネコでさえ、足くらいしか見えない、この黒の
霧の中では難しい。
 手さぐりの手が、ビルの角で、空を切った。この先、進むか、迷った。
駅に戻ることはできない。しかし、歩くのを休んで、ビルに寄り掛かっ

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て、朝まで待っては?朝になれば、黒の霧は消失するなら。
 ビレッジにある彼のアパートまで辿り着ければ、まったく問題なかっ
た。タクシーは、走ってなかった。合理的に考えて、それ以外の移動手
段はなかった。まったくのバカか、彼のように、無知な者が、そして、
それらのカテゴリーに全く含まれない者たちが、こんなふうに、どこか
へ行こうと試みるのだろう。
 彼は、歩道に戻ることに決めた。巡回パトロールに、なぜ駅にある小
屋に泊まらないで、近くをブラついているのか、かれるかもしれない。
そう、座って夜を明かすのはだめだ、ここでは、出発点とあまりに近過
ぎる。もっと離れた場所でかれたら、少なくとも、駅から家に帰る途
中だと答えることができる。
 それから、足が動く方向へ、ビルから角へ、そして、通りを渡ろうと
した。なにかが走ってきても、分からなかっただろう、レーダーでもな
い限り。その考えが、通りのもう半分を渡るのを、急がせた。レーダー
もなしに、走って来るなにかをどう知る?
 少し下った、外側に、カーブが見えた。彼は気を取り直し、歩道を横
切って、手を交差させた。42番通りに沿って、右手をガイドに、ビル
を触って、ふたたび歩けるように。
 42番通りは、タイムズスクエアやブロードウェイから数ブロックに
あり、歩いて行けた、このような月夜でも━━━月は出てなかった。そ

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こには、きっと、紫モンスターの会社があるのだろう。ここにもある?
 そのことを疑問に思うのは、やめた。
 耳を研ぎ澄ましていたが、聞こえてくるのは、彼自身の足をる、や
わらなか音だけだった。無意識のうちに、このぞっとする静寂を、でき
るだけ乱さないように、つま先で歩いていた。
 マディソンまでの短い1ブロックを歩き切り、渡って、5番通りを目
指そうとした。
 彼は、どこへ行こうとしている?疑問に思った。タイムズスクエア?
なぜ、だめ?
 ビレッジは、問題外だった、あまりに遠すぎて、このようなヘビ歩き
では、一晩中かかっても辿たどり着けなかった。しかし、どこかへ、方向を
定めなければならなかった。なぜ、物事の中心ではだめ?もしも、ニュ
ーヨークにどこかへ開かれたなにかがあるなら、そこへ向かうべきだろ
う。
 どこかへ、辿たどり着くために、この手でさわれる黒の外へ。
 通り過ぎるときに、ドアをチェックすることにした。すべて、鍵が掛
かっていた。それを始めて、ポケットにボーデン出版社のオフィスの鍵
があったことを思い出した。それは、ここから、わずか3ブロック南だ
った。しかし、だめだ。ビルの外側のドアは、鍵が掛かっているだろう。
その鍵は持ってなかった。

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 5番通りを渡った。渡るとき、左には、公立図書館があった。通りを
横切りながら、そこまで足を延ばして、夜の残りをそこで過ごそうか考
えた。そうしないことにした。タイムズスクエアを歩きながら、だんだ
ん目的地が定まりつつあった。たしかに、宇宙の中心には、無料宿泊所
がいくつかあるだろう。それが、ただの明かりのついた地下鉄の入口だ
ったとしても。
 5番通りから6番通りへ。長い1ブロックがあって、ここをアメリカ
通りと呼んだらどうかと思った。しかし、その長さのどこも、鍵の掛か
ってないドアはなかった。すべてを試した。
 6番通りを横断して、ブロードウェイに入った。
 別のドアを試した。ほかのドアと同じに、鍵が掛かっていた。しかし、
彼が足を止めて、ノブを回した、わずかな瞬間、グランドセントラル駅
を出て以来、初めて、自分の足音でないものが聞こえた。
 それは、彼の足音のように、やわらかく注意深い足音だった。内側の
なにかが、その足音には危険があると教えてくれた、死につながる危険。






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        5 夜歩き
 
 足音が、こすれて近づいて来たとき、彼は凍ったように立ち尽くした。
だれであれ、それがなんであれ、彼の方で引き返して、別の方向へ戻ら
ない限り、出会いを避けることはできなかった。ケイスに突然分かった
ことだったが、それは、1次元の世界だった。ビルの壁に沿って進む方
向を決めている、彼と未知の者にとって、前に進むか、後ろに戻るかの
2つしか選択の余地はなかった。ヒモの上をうアリのように、どちら
かが引き返さない限り、出会って進むしかなかった。
 そして、戻ることを決心する前に、もう、時すでに遅かった。つかも
うとする手が伸びて来て彼に触れ、哀れっぽい声が聞こえて来た。「オ
レを襲わないでくれ、ミスター!オレには1クレジットもねぇ!」
 ケイスは、安心して、ため息をついた。「オーケー」と、彼。「オレ
はじっと立ってるから、回って行け!」
「わ、分かった、ミスター!」
 手が軽く触れてから、男が過ぎる際、強いアルコールのにおいがして、
彼をオェッとさせた。闇の中で、つぶやく声が聞こえた。
「ちょうどバカ騒ぎ中」と、声。「ローリングはすでに2時間前に終わ
った。チップを賭けてもいい、夜歩きは終わった。ギャングたちは、タ
イムズスクエアにはいない。行く方向に、こだわるな!これは警告!」

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 男は、彼を過ぎたが、まだ、ケイスのすそをつかんでいた。
「あんたを襲ったのは、あいつらか?」と、ケイス。
「あいつら?ミスター、オレは生きている?夜歩きに襲われたら、オレ
は生きているか、逆にきたい」
 ケイスは言った。「その通り!忘れていた。そう、たぶん、この方向
は行かない方がいいかもしれない。地下鉄は、あいている?」
「地下鉄?あんたは、ほんとうに、トラブルに会いたいらしいな!」
「安全な場所は、どこ?」
「安全?長いあいだ、そんな言葉を聞いてなかった。どういう意味?」
酔っぱいの笑い声を出した。「ミスター、オレは惑星直列の日に、火星
と木星の間にいた。船員は、エアロックを閉める前の最後の儀式だと言
った。この霧中の周りのゴミ溜めや夜歩きの役を演ずるのは、あのとき
に戻ったみたいだ」
 ケイスは言った。「オレが夜歩きでないと、どうして分かる?」
「からかってるのか?男が夜歩きになれるのは、そいつがギャングども
をアームロックしてビルからビルへ引きずり回し、降参する声を聞いた
ときだ。こんなときに外出してるオレたちは、バカだ。あんたとオレ、
どちらも。もし、オレが酔っていたら━━━マッチある?」
「ああ、箱でよければ、ホラ、あんたは━━━」
「オレは、手が震える、金星湿地熱で。火をつけてくれる?霧が消えた

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とき、安全な場所を教えられる、夜の残りを、安全に過ごせる場所」
 ケイスは、マッチを箱のへりで擦って、火をつけた。突然の炎が、黒の
霧に、半径1フィートのグレーの影を作った。ぞっとするような目をし
た、おそろしい顔が浮かび上がり、バットを振り上げていた、バットは、
火がついた瞬間に振り下ろされた。攻撃をかわす時間はなかった。ケイ
スは、その瞬間、本能的に同時に行動することで、無事だった。ブロー
の下をかいくぐって、マッチの炎を醜い顔に突き刺した。






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                            (つづく)

















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