さぁ愉快に行こう
          原作:フレドリックブラウン
          アランフィールド
           
            プロローグ
             
 その朝、目覚めたとき、彼は、ある程度はそれに気づいていた。今で
も、編集室の窓から、午後すぐの日射しが傾き始め、ビルの間から、光
と影のパターンを描き出すのを見ながら、もっと確かにそれに気づいて
いた。重要なことが起こりつつあることを、彼は、たぶん今日、気づい
たのだ。良いことなのか悪いことなのかは分からなかったが、彼は、暗
い気持ちで予想していた。なにかが予想外に起こったら、めったに良い
ことではないという理由から、物事は、つまり重要であり続けた。災害
は、あらゆる方向から、驚くほどさまざまなやり方で起こりつつあった。
 




2

1
























































 
            1
 
 声が言った。「ハイ、ミスターバイン!」彼は、窓からゆっくり振り
返った。彼がゆっくり動くことはなかったので、それは、それだけで奇
妙だった。彼は背が低く、活発な男で、反応や動きは、まるで、ネコの
ようにすばやかった。
 しかしこのときは、なにかが、ゆっくりと窓から、彼を振り返らせた。
まるで、彼はもう、その午後早くの明暗のパターンを2度と見ることは
ないかのように。
「ハイ、レッド!」と、彼。
「先生がお呼び!」と、そばかす混じりの雑務係の少年。
「今?」
「都合の良いときに。たぶん、来週でも。忙しいなら、彼にアポを取っ
て!」
 彼は、こぶしで、雑務係の少年のアゴにパンチを入れるふりをすると、
少年は、架空の攻撃に一歩後退した。
 彼は、イスから立ち上がると、ウォーターサーバーのところへ行った。
ボタンを押して、紙コップに、ごぼごぼと水を入れた。
 ハリーヒーラーは、ブラブラ歩きながら、言った。「ハイ、ナッピー!

4

3
























































なにか仕事か?カーペットの先で?」
「ああ」と、彼。「これからだ」
 彼は紙コップの水を飲み干すと、丸めてゴミ箱に捨てた。ドアに私用
と書かれた室の前に行くと、中へ入った。
 編集長のウォルターJ・キャンドラーは、デスクから顔を上げると、
にこやかに言った。「掛けたまえ、バイン!少し、待ってて!」また、
下を見た。
 彼はキャンドラーの向かいのイスに座ると、シャツの胸ポケットから
タバコを取り出して、火をつけた。編集長が、目の前で読んでいる書類
の裏を見たが、そこにはなにも書かれてなかった。
 編集長は、書類を置くと、彼を見た。「バイン、奇妙なでき事があっ
た。あんたは、奇妙なでき事にはてきしてる」
 彼は、ゆっくりと編集長に歯を見せて笑った。彼は言った。「お
の言葉なら、サンクス」
めてるとも!あんたは、かなりやっかいな仕事でもこなしてきた。
今回のは、少し違う。オレでもできない仕事を、リポーターにさせる気
はない。オレはできない、だから、あんたにも頼まない」
 編集長は、さっき読んでいた書類を拾い上げると、それを見ることな
く、下に置いた。「エルスウォースジョイスランドルフという名に覚え
は?」

6

5
























































「精神疾患リハビリセンター所長の?残念ながら、イエス。やつには、
たまたま会っている」
「彼の印象は?」
 彼は、編集長が意味ありげに見つめているのに気づいた。それは、偶
然の質問には思えなかった。彼は受け流した。「どういう意味で、どん
なふうな意味?あんたが言ってるのは、やつは、いいやつで、いい政治
家で、精神科医に対するマナーもよくて、あるいは、なに?」
「オレがいているのは、彼をどのくらい、正気と思ってるか、という
こと」
 彼はキャンドラーを見た、キャンドラーは、からかってはいなかった。
いたって、まじめだった。
 彼は笑い出した。それから、笑うのをやめた。キャンドラーのデスク
に寄りかかった。「エルスウォースジョイスランドルフ」と、彼。「あ
んたが話しているのは、エルスウォースジョイスランドルフのこと?」
 キャンドラーは、うなづいた。「ドクターランドルフは、今朝、ここ
に来てた。彼は、少し奇妙な話をした。その話を、記事にして欲しくは、
ないようだった。その話を、調べて欲しかったようだ。その話を調べに、
もっともてきした男を、送って欲しかった。もしも、それが本当だと判明
したら、120行の赤インクの記事にしてもいいと言っていた」キャン
ドラーは、皮肉っぽくニヤリとした。「オレたちは、それに乗った」

8

7
























































 彼はタバコを消すと、キャンドラーの顔を見た。「しかし、その話は、
奇妙すぎる。あんたは、キャンドラーが正気かどうか、確信がない?」
「確かに」
「それに、仕事はどのくらい、やっかい?」
「ドクターが言うには、リポーターがその話を聞けるのは、入院患者か
らのみ」
「つまり、そこへ入り込めと?守衛として、あるいは?」
 キャンドラーは言った。「あるいは、として」
「う〜」
 彼はイスから立ち上がると、窓のところに歩いて行った。編集長に背
中を向けながら、外を見た。太陽は、ほとんど動いてなかった。だが、
通りの影のパターンは、違って見えた。かすかに違っていた。影のパタ
ーンは、彼の内部でも違っていた。彼は知っていたが、これは、これか
ら起ころうとしていることだった。彼は振り返ると、言った。「イヤだ。
絶対、断る」
 キャンドラーは、かすかに肩をすくめた。「自分を責めるな!オレは、
あんたには頼むことはできないし、自分でもやれない」
 彼はいた。「エルスウォースジョイスランドルフが考えているのは、
彼の病院に来てくれと?それは、あんたがランドルフが正気かどうか疑
ってるとしたら、かなり奇妙な話だ」

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9
























































「オレはあんたにそれを頼むことはしない、バイン。彼にも言ってある、
あんたが仕事を受けるかどうか、分からないと」
「それはつまり、オレが仕事を受けても、なにを捜すのか、教えてもら
えないということ?」
「その通り。あんたは、先入観を持つかもしれない。客観的でなくなる。
あんたは、なにかを捜し、それがあったのか、なかったのかを明らかに
したと、判断できなくてはならない。もしも最初から先入観があれば、
そいつに足をかまれたら、それを認めることを拒否するかもしれない」
 彼は、窓のところからデスクに戻ると、デスクをバンと叩いた。
「なんてこった、キャンドラー!なぜ、オレ?3年前になにがあったか、
知ってるはずだ!」
「ああ、記憶喪失だ」
「そう、記憶喪失。それにちょうど似ている。記憶喪失以上のことがな
かったことは、秘密にはして来なかった。オレは30だ、間違いないだ
ろ?オレの記憶は、3年前で途切れている。3年前に、自分の記憶に空
白の壁があるのがどういう気持ちか、分かるか?
 そう、確かに、壁の向こうのことも、オレは知っている、みんなが教
えてくれたからだ。10年前、オレは雑務係として、ここで働き始めた
ことを知っている。出身地も、両親はすでに亡くなったことも知ってい
る。両親がどんな顔をしていたかも。なぜなら、写真を見せてくれたか

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らだ。妻も子どももないことも、知っている。みんなが教えてくれたか
らだ。オレが知ってるみんなは、そうして知っている。しかし、全部じ
ゃない。オレが教えてもらってないやつが、いる。
 確かに、今までは、順調にやってきた。退院したあと━━━あの事故
の記憶はないが━━━ここへ戻って、オレは記事の書き方を覚えていた
ので、うまくやってきた。たとえ、みんなの顔を、もう一度、覚え直さ
なきゃならなかったとしても。変わった町のクールな記者としてスター
トする、新人リポーターよりは最悪ではなかった。みんなの心強い応援
もあった」
 キャンドラーは、潮時と見て、なだめるように手を上げた。「オーケ
ー、ナッピー!あんたはノーと言った。それで、じゅうぶんだ。この話
の結末まで、オレは知らない。あんたが言った言葉は、ノー。このこと
は、もう、忘れてくれ!」
 緊張感は、彼から無くなってなかった。彼は言った。「あんたは、こ
の話の結末を知らない?あんたは頼んだ━━━いや、そう、あんたは頼
んでない、提案した━━━オレが正気でないと自分で認めて、リハビリ
センターへ患者として、もぐり込めと。
 人は、学校へ通ったことを覚えてない時に、どのくらい自分の心に信
頼を置けるのだろうか?みんなと、最初に会ったときのことや、仕事を
始めたときのことを覚えてない時に。3年前より以前のことを一切覚え

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てない時に?」
 突然、彼は、手首でデスクをまた叩いて、そのことを済まなそうな顔
をした。彼は言った。「悪かった。こんなふうに傷つけるつもりはなか
った」
 キャンドラーは言った。「座って!」
「答えは、まだ、ノーだ」
「とにかく、座って!」
 彼は座った、ポケットから、あたふたとタバコを取り出すと、火をつ
けた。
 キャンドラーは言った。「そのことを話すつもりはなかったが、今、
言おう。あんたがそんなふうに言うなら。オレは、あんたが記憶喪失の
ことを、どう感じているのか、知らない。オレが思うのは、橋の下には
水が流れているということだ。
 聞いて!ドクターランドルフが、リポーターにもっともてきしているの
は、といたとき、オレはあんたのことを話した。彼は、あんたと会っ
たときのことを、偶然、覚えていた。しかし、彼は、あんたの記憶喪失
のことは、知らなかった」
「なぜ、オレに提案を?」
「説明するまで待って!彼が言うには、あんたが、あそこにいる間に、
あんたの記憶を回復させられるかもしれない、最新の、ずっとショック

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15
























































がおだやかな治療法を試してもいいそうだ。やって損はない、と言って
いた」
「うまく行くとは、言ってない」
「かもしれない、と言っただけだ。害は、ないそうだ」
 彼は、たった3回吸っただけで、タバコを消して、キャンドラーを見
た。なにを考えているか、言う必要はなかった。編集長には、それが分
かったからだ。
 キャンドラーは言った。「落ち着いて!あんたが記憶喪失の壁のこと
を、自分から話し始めるまで、オレはそのことには触れてない。予備弾
薬として、取っていたわけでもない。あんたが話し出してから、正義感
から触れただけだ」
「正義感!」
 キャンドラーは、肩をすくめた。「あんたは、イヤだと言った。オレ
はそれを受け入れた。そのあとで、あんたはののしり始めて、その当時
オレが考えもしなかったことまで、オレに言わせようとした。もう、忘
れてくれ!そんな話をぎ木したからって、なにか新しい展開でも?」
「リハビリセンター・ストーリーに新しい登場人物?」
「いや、あんたがそのストーリーに、てきしている」
「ストーリーって、なんだ?ドクターランドルフが正気かどうか分から
ないなら、それは、かなりヤバいストーリーだ。彼が考えてるのは、患

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者たちがドクターと立場をわりたいということ、それとも?」
 彼は笑った。「たしかに、あんたはオレに言えない。そいつは、まさ
に、2重のだまし合いさ。好奇心もあるだろうし、壁をこわせるんじゃな
いかという望みもある。そのあとで、残るものは?オレが、ノーの代わ
りに、イエスと言ったら、どのくらい、オレはそこにいなくてはならな
い?どんな状況になる?再び外へ出られるチャンスは?入るには、どう
する?」
 キャンドラーは、ゆっくり言った。「バイン、あんたがそれをやりた
いとは、思ってない。全部、忘れてくれ!」
「ノーのままだ。オレの質問に答えてくれるまでは、とにかく、ノーだ」
「分かった。あんたは、名前を伏せて、入り込む。だから、ストーリー
がうまくゆかなかったとしても、汚点が残ることはない。もしもうまく
行けば、あんたには真実の全体像が分かる━━━ドクターランドルフが、
あんたを入院させ、ふたたび退院させた行きさつも含めて。ネコは、そ
のとき、バッグから飛び出るわけだ。
 あんたは数日中に、知りたいことのすべてを調べ終わるかもしれない。
いずれにしても、2週間以上はそこに滞在しなくてはならない」
「リハビリセンターには、ランドルフ以外に、オレがだれで、なんのた
めに入っているのか、知ってるものは何人いる?」
「ひとりも」キャンドラーは、前かがみになって、左手の指を4本立て

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た。「4人がいっしょにそこへ入る。あんた」と、1本目。「オレ」と、
2本目。「ドクターランドルフ」と、3本目。「あと、ここから来る、
もうひとりのリポーター」
「オレが客観的でないとしても、なぜ、別のリポーター?」
「仲介役。両方向の意味で。まず、彼はあんたといっしょに、ある精神
科医に会いにゆく。ランドルフの、あんたの精神疾患の診断書は、比較
的簡単に得られる。別のリポーターは、あんたの弟になって、あんたを
診断するようリクエストする。あんたは、その精神科医に、あんたは精
神疾患があることを診断させる。もちろん、あんたを入院させるには、
ふたりの医者の診断が必要で、ランドルフはふたり目になる。あんたの
弟は、ランドルフをふたり目にするよう、申し立てる」
「これは、すべて偽名を使って?」
「あんたが望めば。もちろん、偽名でなければならない理由はない」
「オレの望みは、そういう方向だ。もちろん、記事にはしないでくれ!
ここにいるみんなに事情を話すこと、オレの弟を除いて━━━ヘイ、こ
こでは、弟を偽りたくない。配送部のチャーリードアは、オレのいとこ
で、最も近い親戚だ。彼にやらしてもいい?」
「いいとも。彼は、いろんなことの仲介役もしなくてはならない。リハ
ビリセンターにあんたを連れて行き、あんたが送り返そうとするなにか
を、持ち帰る」

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「そしてもしも、オレが2週間たってもなにも見つけられなければ、あ
んたはオレを退院させてくれる?」
 キャンドラーは、うなづいた。「オレは、ランドルフに合図を送り、
彼は、あんたを診断し、治療が済んだと発表し、あんたは退院して、こ
こへ戻って来る。しばらく休暇を取っていたわけだ。それだけ」
「オレがふりをする、精神疾患の種類は?」
 キャンドラーは、イスの上で少し、もがいたように見えた。キャンド
ラーは言った。「そう、あんたがナッピーって呼ばれるのは、普通のこ
と?つまり、パラノイアは、精神疾患のひとつで、ドクターランドルフ
が言うには、なんら身体的な特徴を持たないそうだ。合理性のシステマ
ティックな枠組みに支えられた、妄想もうそうというだけだ。パラノイアは、あ
る点以外は、すべて正常でありうる」
 彼は、キャンドラーを見た。かすかな、ねじれたような微笑ほほえみを浮かべ
て。「つまり、オレは自分をナポレオンだと思っている?」
 キャンドラーは、少しジェスチャーを交えた。「好きな妄想を選んで
よい。しかし、普通のことなのかどうか?みんながオフィスで、あんた
をからかって、ナッピーって呼ぶのは?そして━━━」弱々しく、言い
終えた。「そして、すべてに」
 それから、キャンドラーは、きちょうめんに、彼を見た。「なににな
る?」

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 彼は立ち上がった。「そうだな、ゆっくり眠ってから、明日の朝、知
らせる。しかし、非公式には━━━今でも、いいかな?」
 キャンドラーは、うなづいた。
 彼は言った。「午後の残り全部を使って、図書館へ行って、パラノイ
アについて調べる。ほかにすることがなければ、チャーリードアに今夜
会っても、いいかな?」
「いいとも」
 彼はキャンドラーに向かって、ニヤリとした。デスクに寄りかかって、
言った。「ちょっとした秘密を教えよう!今まで黙って来たことだが、
だれにも言わないで!オレは、ナポレオンなのさ!」
 出て行くのにちょうどよい頃合だった。それで、彼は出て行った。










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25
























































 
            2
 
 ハットをかぶり、コートを着て、彼は外へ出て行った。空調の効いた
ところから、熱い日射しの中へ。デッドラインを過ぎた、新聞社の静か
なマッドハウスから、もっと静かな、蒸し暑い7月の午後の通りのマッ
ドハウスの中へ。
 パナマハットを後ろへずらし、額をひたいハンカチでぬぐった。彼はどこへ?
パラノイアを調べに図書館にではない。それは、午後の残りを外で楽し
むための口実だった。パラノイアについては、その関連も含めて、図書
館で、2年以上も掛けてすべて調べてあった。それに関しては、エキス
パートだった。彼は、精神科医をだまして、彼が正気だと、あるいは、
正気でないと、思わせることができた。
 公園の北側に歩いて行き、日陰のベンチのひとつに座った。ハットを
ぬいで横に置き、ふたたび額をひたいぬぐった。
 日射しに明るいグリーンに輝く芝生や、頭を前後させて歩くハト、木
の一方のがわから走り降りてきた、赤のリスを見ていた。リスは、彼の方
を見てから、同じ木の別のがわへ大急ぎで走り去った。
 そして、3年前の、記憶喪失の壁のことを、考えた。
 壁は、実際は、壁でなかった。壁と偽っいつわて、彼は陰謀を企てた。壁、

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27
























































芝生のハト、壁。
 それは、壁でなかった。シフト、突然の変化だった。2つの人生にラ
インが引かれた。事故前の27年間と、事故後の3年間。
 この2つは、同じ人生ではなかった。
 しかし、誰も気かなかった。今日の午後まで、彼にも、そのことのヒ
ントもなかった。それが、誰かにとっての、真実だとして。それを、キ
ャンドラーのオフィスを出るギャグとして使った。キャンドラーもそれ
がギャグだと思っていた。だとしても、気をつけなければならない。な
んどもギャグとして使えば、みんなは疑問に思い始める。
 その事故で、アゴの骨折などの重傷を負ったことが、今日、彼は自由
の身で、精神疾患リハビリセンターにはいないということにつながる。
アゴの骨折は、町から10マイル離れた場所で、彼の運転する車が、ト
ラックの前面に衝突して48時間後に気づいたことだが、3週間のあい
だ、彼にしゃべることを禁じていた。
 3週間は、痛みやもろもろの混乱にもかかわらず、よく考える機会を
与えてくれた。彼は、壁を思いついた。記憶喪失は、便利で、彼の知っ
ている事実を話すよりも、みんなに信じてもらえそうだった。
 彼の知っている事実とは?
 それは3年前から今も、彼に取りいている亡霊だった。そのとき、
彼が目覚めたのは、白い室で、見知らぬ人たちに囲まれていた。奇妙な

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服を着て、ベッドの脇に座っていた。それは、どこの野戦病院でも見た
ことも聞いたこともないようなベッドだった。ベッドの上には、フレー
ムがあって、見知らぬ人たちの顔が彼を見下ろしていた。片足と両腕が
吊るされ、足を支えるスティックは上向きで滑車を通してロープで支え
られていた。
 彼は口を開いて、なんどもこうとした。ここがどこで、なにがあっ
たのか、しかし、そのとき、アゴには頑丈ながんじょうキャストがあって、口を動
かせないことに気づいた。
 彼は見知らぬ人たちを見つめて、やがて自然に情報がもたらされて、
その意味が分かるだろうと期待した。しかし、みんなニヤニヤしながら、
言った。「ハイ、ジョージ!戻ったら、また仕事しようぜ!すぐに良く
なるさ!」
 言語が奇妙だった。そこから、彼の居場所が分かった。イギリスだっ
た。彼は、イギリスの捕虜になったのか?さらに、言語が、彼はほとん
ど知らないはずだが、見知らぬ人たちが話すことを完全に理解できた。
そして、みんなが彼をジョージと呼ぶのは、なぜだ?
 疑問や激しい驚きがいくらか、彼の目に宿ったからか、ひとりがベッ
ドに寄りかかって、言った、「混乱するのも無理はない、ジョージ!あ
んたのクーペが、砂利トラックに正面からぶつかったんだ!2日前のこ
とさ!あんたは、初めて意識を取り戻したんだ。大丈夫さ!しかし、折

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31
























































れた骨がみんなくっ付くまで、しばらくは病院にいなくてはならない。
なにも深刻なことにはならなくて、良かったな!」
 それから、苦痛の波がやって来て、混乱を洗い流して、彼は目を閉じ
た。
 別の声が言った。「鎮静剤をうつよ、ミスターバイン」彼は目を開け
る気にならなかった。見ない方が、痛みと戦うのはやさしかった。
 上腕に針をさす気配がした。すぐに、周囲のものは、すべて消え去っ
た。
 
               ◇
 
 彼がふたたび気がついたとき、それは12時間後とあとで教わったが、
同じ白い室で、同じ奇妙なベッドだった。しかし、今度は、室に女がい
た。奇妙な白衣を着て、ベッドの足元に立って、ボードに留められた紙
を読んでいた。
 彼が目を開いたことに気づいて、彼女は笑い掛けた。「おはよう、ミ
スターバイン、気分は、良さそう!あなたは回復したと、ドクターホル
トに報告できそう!」
 彼女は出て行って、前に彼をジョージと呼んだ見知らぬ男と、ほとん
ど同じ奇妙な服を着た男といっしょに戻ってきた。

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33
























































 ドクターは彼を見て、クックッと笑った。「しゃべれない患者は、よ
く見るが、メモも書けないとは!」それから、まじめな顔になった。
「痛むかね?痛くないなら、1回、痛むなら、2回、ウィンクをして!」
 痛みは、それほどでなかったので、1回、ウィンクした。ドクターは、
満足そうに、うなづいた。「あんたのいとこが」と、ドクター。「電話
して来ている。あんたの回復ぶりを知りたいそうだ。しゃべれないなら、
聞いて!彼と今夜少し会うのは、問題ないと思う」
 看護婦は、シーツのしわを直してから、うれしそうに、ドクターとい
っしょに室を出て行った。彼の頭の中の、混乱した考えのしわは、その
ままにしたまま。
 しわを直す?それが、3年前だった。彼はまだ、それらのしわを直せ
てなかった。
 みんなが英語をしゃべり、彼の英語の知識は、ごくわずかだったにも
かかわらず、その野蛮な言語を完全に理解できるというのは、驚くべき
事実だった。事故がどう影響して、彼がほとんど知らない言語を、突然、
完全に分かるようになったのだろう?
 みんなが彼のことを、別の名前で呼ぶというのも、驚くべき事実だっ
た。「ジョージ」は、昨夜ベッドの脇にいた男が呼んでいた名前で、
「ミスターバイン」は、看護婦が呼んでいた。ジョージバインは、確か
に、英語名だった。

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35
























































 しかし、いずれの驚くべきことの何千倍も驚くべきことが、1つあっ
た。昨夜の見知らぬ男、たぶんドクターが、いとこと言った男だろう、
が話してくれた、事故のことだ。「あんたのクーペが、砂利トラックに
正面からぶつかったんだ」
 びっくりすることは、矛盾することは、クーペやトラックの意味を彼
が知っていたということだった。いまだかつて、運転をした記憶も、事
故というものの記憶もなかった。つい一瞬前まで、ロディのテントの中
で座っていた━━━しかし━━━しかし、クーペのイメージや、ガソリ
ンエンジンで動く、という、今まで心に浮かんだことのないイメージが、
浮かんだ。
 ふたつの世界が、どちらもシャープでクリアで明らかな世界が、混ざ
り合ってしまった混乱があった。彼が27年間生きてきた人生が、27
年前、1769年8月15日にコルシカ島で生まれた人生に入り込んで
しまった。その世界では、彼は眠りにつこうとしていた━━━昨夜のこ
とのように思える━━━イタリアのロディで、軍隊の将軍としてテント
にいた。遠征での最初の重要な勝利のあとだった。
 それから、今の混乱した世界で、彼は目覚めた。この白の世界では、
みんなが英語をしゃべり、今では彼もそれで考えていた、しかし以前、
バレンスのブリエンナや、トーソンで聞いたことのある英語とは違って
いた。だが、それを完全に理解し、もしもアゴのキャストが取れれば、

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37
























































彼もしゃべれることが本能的に分かった。この世界では、みんなは彼を、
ジョージバインと呼び、もっとも奇妙なことは、彼の知らないワードを
みんなが使っても、頭の中では知らなくても、心にそのイメージが沸い
てくるということだった。
 クーペ、トラック。いずれも、心に自然に浮かんだワードは、自動車
だということだった。彼は集中して、自動車がなんで、どう動くのかを
考えた。シリンダーブロックがあって、ガソリンを気化させて、ジェネ
レータの電気スパークで発火、爆発させてピストンを動かす。
 電気。彼は目をあけて、上を見ると、天井にシェード付きの電灯があ
った。彼は、ある程度は、それが電気的な光だと分かっていて、一般的
に、電気とはなにかを知っていた。
 イタリアのガルヴァーニ━━━彼はガルヴァーニの実験のいくつかは
読んでいたが、天井の電灯のような実用的な利用につながるものではな
かった。シェード付きの電灯を見ながら、背景を想像できた。水力でダ
イナモを回転させ、なんマイルもの電線や、モーターでジェネレータを
回す。彼の心から、あるいは彼の心の一部から、浮かんできた概念に、
彼は驚いた。
 ガルヴァーニが行った、弱い電流を使ってカエルの足をキックさせる
ような、いろいろな手探りの実験は、天井の電灯をともすような謎では
ない謎につながってゆくものではなかったが、そこにもっとも奇妙なこ

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39
























































とがあった。彼の心の一部は、それは謎だと言い、別の一部は、それを
受け入れて、それがどう働くかを一般的に理解していた。
 まず、と彼は考えた、電気の光は、トーマスアルバエジソンが発明し
た、どこかで、だいたい━━━バカらしい、彼は1900年頃と言おう
としたのだが、今はまだ、1796年だった。
 それから、まったくひどい思いが、彼にやってきた。彼は、痛々しく、
むなしく、ベッドに起き上がろうとした。それは、1900年だったと、
彼の記憶が教えた。エディソンは1931年に死んだ。そして、ナポレ
オンボナパルトという男は、110年前の1821に死んだ。
 彼は、ほとんど、混乱状態に陥っおちいた。
 正気かどうか、彼がしゃべれないという事実だけが、マッドハウスの
外にいさせてくれた。彼に考えるチャンスを与えてくれた。記憶喪失の
ふりをするチャンスを与えてくれた。事故以前の記憶をすべて失ったふ
りをするチャンスを与えてくれた。記憶喪失は、あんたがマッドハウス
に送られる理由にならなかった。あんたが誰かは、みんなが教えてくれ
るし、あんたの前の人生がどうだったかも教えてくれる。あんたが思い
出そうとしている間に、みんなが記憶の糸を教えてくれて、それをどう
織るのかも教えてくれた。
 そうして、3年が過ぎた。さて、明日、彼は精神科医に会って、言う
だろう。彼は━━━ナポレオンだと!

42

41
























































 
            3
 
 太陽の傾きが、大きくなった。上空を、飛行機の大きな鳥が通り過ぎ
た。それを見上げて、彼は笑い出した。自分自身に向かって、静かに。
マッド的笑いではなかった。おかしかったのは、ナポレオンボナパルト
が、いつものスタイルで、その飛行機に乗っているという、アンバラン
スなイメージから来ていた。
 それは、記憶では、彼が一度も、飛行機には乗ったことがなかったこ
とから来ていた。たぶん、ジョージバインは乗ったかもしれない。ジョ
ージバインが過ごした27年間で、一度くらい乗ったに違いない。しか
し、そのことで、彼も乗ったことになるのだろうか?これは、1つの疑
問で、大きな疑問の一部でもあった。
 彼は立ち上がり、ふたたび、歩き出した。5時に近かった。チャーリ
ードアは、もうすぐ、新聞社を出て、夕食のために家に向かう。すぐに
電話して、今夜、家にいるか確かめた方がいい。
 近くのバーに行って、電話した。うまく、チャーリーがつかまった。
彼は言った。「ジョージだが、今夜、家に行っても?」
「いいとも、ジョージ!ポーカーをやるつもりなので、あんたが来る時
間を教えてくれれば、抜け出せる」

44

43
























































「時間を教えてということは、キャンドラーから聞いた?」
「いや、電話してくることは知らなかった。そうなら、マージに電話し
てた。夕食をいっしょには?彼女に電話すれば、済む」
 彼は言った。「ありがたいが、遠慮する、チャーリー。夕食はデート
がある。ポーカーは、行ってくれば!7時くらいに行く。一晩中話すわ
けでない。1時間もあれば十分。8時前には戻れる」
 チャーリーは言った。「それについてはご心配なく!そんなに行きた
いわけではない。とにかく、7時に待ってる」
 彼は電話ブースから出て、バーカウンターへ行き、ビールを注文した。
夕食の誘いを、なぜ断ったのかと考えた。たぶん、潜在意識下で、たと
えチャーリーやマッジだとしても、だれかに会う前に、もう2時間くら
い必要としたからだろう。
 ビールを、ゆっくり、すすった。これを最後にしたかったからだ。今
夜は、しらふでいたかった。かなり、しらふで。決心を変える時間は、
まだ、あった。彼は自分を、小さなループだが、ループにはまったまま
にしていた。彼はまだ、朝、キャンドラーに会いに行って、まだ決め兼
ねている、と言うことができた。
 グラスのふち越しに、バーカウンターの鏡に映った自分を見ることが
できた。背が低く、ザラついた髪、鼻にソバカス、ずんぐりしていた。
背が低く、ずんぐりしているところまでは、よかった。しかし、残りは

46

45
























































なんだ!遠目にも似てなかった。
 2杯目のビールを、ゆっくり飲んだ。それが、5時半だった。
 彼は、また、外へ出て、歩いた。今度は町に向かって。歩きながら、
ブレード社を過ぎた。見上げると、キャンドラーが彼を送り出したとき
に眺めていた、3階の窓が見えた。彼はずっと、そうして窓のそばに座
って、日の傾く午後をずっと眺めてることになるのかもしれない、と考
えた。
 たぶん。たぶん、そうはならない。
 クレアのことを考えた。今夜、彼女と会いたいのでは?
 いや、違う。正直言って、会いたくはない。しかし、彼が2週間消え
て、さよならも言ってなければ、知り合いの名簿からはずしてくれと言
ってるようなものだ。彼女は気に入らないだろう。
 言っておくべきだ。
 彼は薬局の前で立ち止まり、彼女の家に電話した。彼は言った。「ジ
ョージだ、クレア。聞いて!明日、仕事で町を離れる。どのくらいかは、
分からない。数日かもしれないし、数週間かもしれない。今夜遅く、会
いに行く。さよならを言いに」
「もちろん、いいわ。何時?」
「9時過ぎだが、それほどあとでない。最初に仕事で、チャーリーに会
うので、9時前には行けない」

48

47
























































「もちろん、いいわ、ジョージ。いつでも」
 
               ◇
 
 ハンバーガーショップの前で立ち止まり、腹は減ってなかったが、サ
ンドイッチとパイを少し食べた。6時15分だった。歩いていけば、チ
ャーリーの家にちょうどよい時間に着ける。それで、彼は歩いた。
 チャーリーは、玄関で彼を出迎えた。彼は唇にくちびる指をあてて、マージが
皿をいているキッチンのうしろに頭を傾けて、言った。「マージには
言ってない、ジョージ、心配させるので」
 マージを心配させては、なぜだめなのか、質問したかったが、かな
かった。たぶん、答えを聞くのが、少しこわかったのだろう。それは、マ
ージがすでに彼を心配していることを意味していた。悪いサインだった。
彼はこの3年間、すべてを、かなり元気にやり過ごして来た、と考えた。
 とにかく、質問できないまま、チャーリーは彼を居間に案内し、そこ
はキッチンからもよく聞こえたが、チャーリーは言った。「チェスをや
る気になってくれて、うれしいよ。マージは今夜は出掛けるんだ。彼女
が見たい映画が、近所の映写会でやるので。カードゲームをやる気分で
ない」
 彼は、クローセットからチェス盤と駒を出して、コーヒーテーブルに

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49
























































並べ始めた。マージは、ビールを背の高い冷えたグラスに注いだトレー
を持って来て、チェス盤のそばに置いて、言った。「ハイ、ジョージ、
2週間出張って聞いたわ!」
 彼はうなづいた。「場所を知らせてもらってない。キャンドラーに、
編集長だが、町を出る出張が可能かかれて、オレはできると答え、明
日からだと言われた」
 チャーリーは、黒白のポーンを1つずつ取って、両手で握り、パッと
開いた。彼は、チャーリーの左手に触ってから、白を取った。ポーンを
キングの前に指すと、チャーリーも同じことをしたので、クイーンの前
のポーンを前進させた。
 マージは鏡の前で、ハットを頭の上に乗せていた。彼女は言った。
「わたしが帰ったとき、もういなければ、ジョージ、今、言っておく!
ソロング アンド グッドラック!」
 彼は言った。「サンクス、マージ、バーイ!」
 マージが出掛けるまで、彼は数手を指した。マージは準備ができると、
チャーリーにお出掛けのキスをして、彼にも額にひたい軽くキスをして、言っ
た。「体に気をつけて、ジョージ」
 彼女のブルーの目と目が合った瞬間、彼は、彼女はほんとうに心配し
てくれているのだと思った。そのことが、彼を少しこわがらせた。
 彼女のうしろでドアが閉まると、彼は言った。「ゲームは終わりだ、

52

51
























































チャーリー!本題に入ろう!9時に、クレアに会わなくちゃならない。
どのくらい行ってるのか分からないから、彼女に、さよならを言わない
で、行くわけに行かない!」
 チャーリーは、彼を見上げた。「あんたとクレアは、真剣なのか?」
「分からない」
 チャーリーは、ビールを持ち上げて、少しすすった。急に、彼の声は
大きくなって、ビジネス風になった。彼は言った。「分かった、本題に
入ろう!明日の朝、11時に、アービングという男に会う約束をした。
ドクターアービングは、アップルトン街の精神科医で、ドクターランド
ルフの推薦だ。
 今日の午後、キャンドラーから話を聞いて、オレは彼に電話した。キ
ャンドラーは、すでにランドルフに電話してあった。オレのストーリー
はこうだ。オレは本名を使った。最近、おかしな振る舞いをする、いと
こがいて、彼に会って欲しい。いとこの名前は伝えてない。どんなおか
しな振る舞いなのかも、話してない。オレは質問されるのを、避けたか
った。それで、偏見なしに彼に判断して欲しい、と言った。オレは、あ
んたに精神科医と話すように言うと言って、唯一、知ってる医者はラン
ドルフだけだと。オレは、ランドルフに電話した。彼は、プライベート
にはあまり立ち入りたくないと言って、アービングを紹介した。あんた
は一番近い親戚だと話した。

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53
























































 診断書のもうひとりの名前は、ランドルフ用にけてある。あんたが、
アービングと話して、あんたがほんとうにおかしいと、彼が考えたら、
彼のサインがもらえるので、オレはランドルフに診断書の1番目になっ
てほしいと、言うことができる。そのときは、もちろん、ランドルフは
賛成してくれる」
「あんたは、まだ、オレにどういう種類の非正常性を疑っているのか、
言ってないが?」
 チャーリーは頭を振ってから、言った。「そう、いずれにせよ、明日
は、ふたりとも、ブレード社に仕事に行かない。マージはなにも知らな
いので、オレはいつも通りに家を出るが、あんたとはダウンタウンで落
ち合う。たとえば、11時15分、クリスティーナのロビー。そして、
あんたが、アービングに、あんたは収監のしゅうかん必要があると判断させられる
と思ったら、オレたちは、ランドルフに、そう伝え、明日、計画の詳細、
全てを教えてもらう」
「オレの気が変わったら?」
「そのときは、オレは予約をすべてキャンセルする。それだけのこと。
これで、すべて説明した?チェスの続きをやろう!まだ、7時20分だ」
 彼は、頭を振った。「むしろ、話がしたい!あんたが言い忘れたこと
が、1つある。明日以降、あんたは、どのくらいの頻度ひんどで、戦況報告に
来てくれるのかい、チャーリー?」

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55
























































「そう、それを忘れていた。面会に許された頻度ひんどは、週3回だけ。月、
水、金の午後だけ。明日は金曜なので、あんたが入院したら、会いに行
けるのは、月曜になる」
「分かった。あと1つだけ、聞きたい。オレがそこへ入院することがス
トーリーだと、キャンドラーからヒントとして聞いた?」
 チャーリードアは、頭を、ゆっくり、振った。「言葉では、聞いてな
い。なんのこと?なにか、しゃべれない秘密でも?」
 彼は、どうしようか迷いながら、チャーリーを見つめた。そして、急
に、ほんとうのことはしゃべれないと、感じた。彼には、どちらも分か
ってなかった。それは、彼をおろか者に見せるだろう。それは、キャン
ドラーがしゃべれない理由を言ったとき━━━とにかく、1つの理由で
はある━━━それほどバカらしくは聞こえなかったが、しかし、今はバ
カらしく響く。
 彼は言った。「彼が伝えてないなら、やはり伝えない方がいいと思う、
チャーリー」しかし、それは確信があるように聞こえなかったので、付
け加えた。「キャンドラーと、伝えないと約束した」
 そのときまでに、どちらのグラスも空になっていた。チャーリーは、
お代わりをつぐために、2つともキッチンに運んだ。
 彼は、キッチンの内装が見たかったので、チャーリーについて行った。
彼は、キッチンのイスに、足を広げて座り、ひじをイスの背についた。

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57
























































チャーリーは、冷蔵庫に寄りかかっていた。
 ここにはいない、キャンドラーが言った。「乾杯!」そして、ふたり
は飲んだ。チャーリーはいた。「ドクターアービングにしゃべる、あ
んたのストーリーは?」
 彼はうなづいた。「ああ、準備済み。キャンドラーから聞いた?」
「あんたが、ナポレオンだということ?」チャーリーは、クックッと笑
った。そのクックッという笑いは、それがほんとうだと告げている?彼
は、チャーリーを見て、気づいた。彼の考えていることは、完全に想像
を絶すると。チャーリーは公平だし、正直だ。チャーリーとマージは、
もっとも親しい友人だ。彼の知る3年間、ふたりはもっとも親しい友人
だった。それよりもっと長く、どのくらい長くかは、チャーリーによる。
しかし、3年を越えたとき、また、なにか別のものがあった。
 彼は、その言葉が少し引っ掛かったので、せき払いをした。しかし、彼
かなければならなかった。確かめなければならなかった。「チャー
リー、きたいことがある。このビジネスは、堅実けんじつ?」
「ふん?」
くのも変なのだが、あんたとキャンドラーは、オレがおかしいと思
ってないよね?あんたたちは、まだ、オレを行かせるということをやり
遂げてない。あるいは、とにかく試しに、苦痛なしに、遅すぎるまでは、
オレがそんなことが起こってるとは全く知らずに?」

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 チャーリーは、オレを見つめて、言った。「ジョージ、まさか、オレ
がそんなことをするとは、思ってない?」
「ああ、思ってない。しかし、あんたは、オレのためにと考えたかもし
れない。そう考えてのことかもしれない。いいかい、チャーリー、もし
そうだとして、もし、あんたがそう考えたとして、それはファアじゃな
いと、指摘してきさせてくれ!オレは、明日、精神科医のところへ行って、や
つをだまして、オレには妄想があると信じさせようとする。彼に対して
は、正直に振舞わない。そして、それは、オレには、アンフェアだ。あ
んたが知っているということが、だろ、チャーリー?」
 チャーリーの顔色は、少し蒼白そうはくになった。彼は、ゆっくり言った。
「神に誓って、チャーリー、そのようなことはなにもなかったと言える。
このことについて、オレが知るすべては、キャンドラーとあんたが話し
てくれたものだけだ」
「あんたは、オレが正気だと?完全に、正気だと思ってる?」
 チャーリーは、唇をくちびるなめて、言った。「そうあって欲しい?」
「そう」
「おれは、この瞬間まで、それを疑ったことはなかった。ただし、いや、
記憶喪失は、心の錯誤だと、オレは思う。それ以前のことを思い出せな
いとか。しかし、あんたの言ってるのは、そのことじゃない?」
「違う」

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「それなら、今の今までは━━━ジョージ、あんたの言ってることは、
被害妄想のように聞こえる。もしも、あんたがオレにいたことが本当
なら。なにか、陰謀を企んでいるような。たしかに、あんたもそれがど
んなにバカらしいことか、分かってるはずだ。唯一、ありうる理由は、
キャンドラーかオレが、あんたにウソをつかせて、陰謀に巻き込もうと
している?」
 彼は言った。「悪かった、チャーリー。それは、一瞬の奇妙な心の迷
いだった。違うとも、もちろん、オレはそんなふうには思ってない!」
 彼は、腕時計を見た。「チェスを終わらせよう!」
「いいね!並べ直すまで、待って!」
 彼は、不注意に指したので、15分で負けた。リベンジのチャンスを
あげようという、チャーリーの申し出を断って、イスの背にもたれた。
 彼は言った。「チャーリー、チェスの駒が、赤と黒になる話を聞いた
ことは?」
「いや、ない。黒と白が、赤と白も、今まで見たことない。なぜ?」
「そう」彼は、ニヤリとした。「オレがほんとうに正気かどうか、あん
たに考えさせたあとで、こんな話を、すべきではないのだが、最近、よ
くなんども、同じ夢を見るんだ。同じものがなんども出て来ることを除
けば、普通の夢よりすごく異常ということはない。そのひとつは、赤と
黒の間のゲームのようななにかだ。それが、チェスなのかどうかは、分

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からない。夢を見ているときは、どちらかなんてこと気にせず、意味の
あるように思っている。その夢でも、オレは、赤と黒のビジネスが、チ
ェスかどうかなんてことは気にしてなかった。分かってたのか、そう思
っていたのか、あるいは、知ってるように思っていたのか。しかし、知
識は、持ち越せない。意味は分かる?」
「よく分かる。続けて!」
「そう、チャーリー、それは、まだ越えることのできない、記憶喪失の
壁の向こう側のことと、関係するんじゃないかと思う。これは、最初の
ことだ。オレの人生ではなくて、たぶん、思い出せる限りの、この3年
間で。オレの記憶は、壁を乗り越えようとはしないのではないか、と心
配になる」
「たとえば、赤と黒のチェスの駒を、今までに、見たことがあるかどう
かということ?あるいは、学校時代に、学内対抗の、バスケットボール
か野球チームで、赤チームと黒チームがあったかどうかということ?あ
るいは、別のなにかそのようなもの?」
 チャーリーは、ずいぶん長く考えてから、頭を振った。「ない」彼は
言った。「そのようなものは、なにもない。もちろん、ルーレットには、
赤と黒がある。ルジュノワとか。それに、カードゲームをするときのデ
ッキには、2つの色がある」
「いや、それは、カードゲームやルーレットとは関係ないと、かなり確

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65
























































信をもって言える。そのようなものでは、ない。それは、赤と黒の間の
ゲームだ。ある程度、プレイヤーではある。よく考えてくれ、チャーリ
ー!あんたがよく考える領域でなく、オレの領域で!」
 彼は、チャーリーを熱心に見つめていたが、しばらくして、言った。
「オーケー!脳をそんなに酷使こくしするな、チャーリー!これを試してみて!
明るく輝く」
「明るく輝くって?」
「ただの、フレーズ。明るく輝く。なにかそこから分かることは?」
「なにもない」
「オーケー!」彼は言った。「忘れてくれ!」
 
            4
 
 まだ、早かったので、歩きながら、クレアの家を通り過ぎた。そして、
角まで来ると、大きなニレの木の前に立ち止まり、タバコの残りを吸っ
た。希望もないような気がしながら。
 実際、なにも考えることがなかった。さよならを彼女に言うことがす
べてだった。簡単な2音節。どこへ行くのかとか、いつまで行くのかと
いうような、彼女の質問は、うまくごまかす。なにもしゃべらず、リラ
ックスして、なんの感情も持たず、それらがなにも意味せず、互いにな

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んの関係もないかのように。
 そうしなければ、ならなかった。クレアウィルソンとは、1年半前に
知り合って、だらだら付き合っていた。それは、フェアじゃなかった。
これは、彼女のために、終わらせなければならなかった。彼は、女に彼
と結婚してくれと頼むビジネスを背負っていた、自分をナポレオンであ
ると考えている狂人として。
 彼は、タバコを捨て、それを癖悪く、かかとで踏みつけた。それから
家まで戻り、ポーチに上がって、呼び鈴を鳴らした。
 クレアは、ドアまで出てきた。背後の玄関の光が、影になった顔のま
わりで、髪を金糸の飾り輪のように見せた。
 彼女を両腕で抱き寄せたかったが、そうしないように、つとめて、手首
を下げたままにした。
 おろかもののように、彼は言った。「ハイ、クレア、順調?」
「分からない、ジョージ。順調って?入りたくないの?」
 彼女はドアから1歩下がって、彼が通れるようにした。光は顔を照ら
した。甘い顔立ちだった。彼女はなにかを知った、と彼は考えた。彼女
の表情と声のトーンが、それを示していた。
 彼は、中へ入りたくなかったので、言った。「こんないい夜なら、ク
レア、散歩はどう?」
「いいわ、ジョージ」彼女は、ポーチに出て来た。「いい夜ね。星がき

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69
























































れい!」彼女は振り返り、彼を見た。「星の1つは、あなたのもの?」
 彼は少し歩き始めた。先に階段を下りて、ポーチの手助けに、ひじを貸
した。彼は明るく言った。「すべてオレのもの。いくつかどう?」
「1つくれるの?小さな、赤色巨星でいいわ。望遠鏡でないと見えない
ような」
 
               ◇
 
 ふたりは、歩道に出て、家から離れて歩いた。突然、遊びのトーンが
消え、彼女の声が変わった。彼女は言った。「なにか具合でも悪いの、
ジョージ?」
 なにも悪くはない、と言おうとして口を開いたが、また閉じた。彼女
にウソはついてなかったが、ほんとうのことも言ってなかった。彼女が
そういたのは、物事を簡単にしようとしてだが、実際は、物事を、さ
らに難しくしていた。
 彼女はさらに、いた。「なにに、さよならを言うの?良いことにで
しょ、ジョージ?」
 彼は言った。「ああ」彼の口は、カラカラにかわいた。それが、はっき
りした単音節で来るのかどうか、知らなかった。唇をくちびるなめると、また、
言った。「良いことに、だと思うよ、クレア」

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71
























































「なぜ、さよならを?」
 彼は、正面から彼女を見れなかった。盲目のように、前を向いたまま、
言った。「うまく説明できない、クレア。しかし、オレができる唯一の
ことなんだ。ふたりのどちらにとっても、ベストなことなんだ」
「1つだけ、教えて、ジョージ。あなたは、ほんとうにどこかへ行くの?
それとも、それは、ただの言い訳なの?」
「本当だとも!オレはどこかへ行く。どのくらい行ってるのか、知らな
い。しかし、オレに聞かないで!どこへとか!オレも知らない」
「たぶん、わたしは答えられる、ジョージ。答えていい?」
 彼の心は、別に気にしなかった。彼の心は、最悪だった。しかし、そ
れを、どう言えただろう?彼は、何も言わなかった。いずれにせよ、イ
エスとは言えなかった。
 ふたりは、公園のそばに来ていた。近所の小さな公園で、1ブロック
四方、プライバシーを守れるようなものはなかったが、ベンチがいくつ
かあった。彼が彼女を、あるいは、彼女が彼をリードして、公園に入り、
ベンチのひとつに座った。公園には、他の人たちもいたが、ふたりから
離れた場所にいた。
 彼女は、彼のすぐ近くに座って、言った。「あなたの心が、心配なん
でしょ、ジョージ?」
「そう、ある意味、そうだ。今まで、ずっと」

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73
























































「そして、どこかへ行くというのは、それと関係のあること?あなたは、
診察か、あるいは、治療を受けるために、あるいは、その両方のために、
どこかへ行くの?」
「そんなかんじだ。それほど、単純ではないが、クレア。しかし、それ
については、なにも言えないんだ」
 彼女は手を、彼のヒザにあった彼の手の上に置いて、言った。「それ
が、どんなものか分かるわ、ジョージ。そして、それについては、聞か
ない。
 あなたも言わなくていい。ただ、さよならの代わりに、ソロングと言
って!手紙も書きたくなければ、いらない。けれど、気高けだかそうにしたり、
ここにあるすべてを、否定したりしないで!わたしのために!少なくと
も、あなたが行こうとしている場所に着くまでは!できる?」
 彼は、ウッとなった。彼女は、すごく複雑なものを、とてもシンプル
なものに変えた。彼は、みじめな気持ちで、言った。「分かった、クレ
ア。あんたがそうして欲しいなら」
 突然、彼女は立ち上がった。「もう帰るわ、ジョージ」彼も立ち上が
った。「まだ、早い」
「そうだけど、時として、デートを終わらせる、心理的瞬間があるのよ、
ジョージ。バカげたことのように聞こえるけど、言うことを言ったあと
では、期待外れでもない」

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 彼は少し笑って、言った。「言おうとすることは、分かる」
 ふたりは、黙って、家まで歩いた。ハッピーな沈黙なのか、アンハッ
ピーな沈黙なのか分からなかった。あまりに混乱していたからだ。
 玄関のポーチの影で、彼女は、彼の方に振り返って、言った。「ジョ
ージ」そして、しばらく黙った。
「よくないわ、ジョージ、そんな気高けだかそうにしないで、あるいは、なん
であろうと、そんなふりをしようとしないで!もしも、当然だけど、わ
たしを愛してないなら!少なくとも、それが、わたしへの言い逃れのふ
りであるなら!どうなの?」
 彼にできることは、2つしかなかった。1つ目は、走って逃げること。
2つ目は、彼が実際にしたこと。腕を彼女に回して、キスをした。むさ
ぼるように。
 それが終わったとき、すぐではなかったが、彼は、ちょっと激しく息
をして、物事がよく考えられなくなって、というのは、彼は、思っても
ないことを言ってしまったからだ。「愛してる、クレア、愛してる、愛
してる」
 そして、彼女も言った。「わたしもよ、ディア。戻って来てくれる?」
そして、彼は言った。「そう、かならず!」
 
               ◇

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77
























































 
 彼女の家から、彼のアパートまで6マイルあったが、歩いて帰った。
その歩きは、数秒間のことのように思えた。
 室の電気を点けたまま、窓辺に座って、考えていた。しかし、考えは、
3年前の同じ円の周りを回っていた。
 新しい要素は、なにも加わってない。今、首根っこに突き刺して、な
にかをあばき出そうとしていることを除いて。いろいろあばき出す、大
手術だ。たぶん、たぶんだが、ある方法で、あるいは別の方法で、物事
は解決されるだろう。
 窓の外、星々は、夜空に散らばる、明るいダイヤモンドだった。その
1つは、彼の運命の星?もしも、そうなら、彼はそれに従おう。もしも
それが導くのが、マッドハウスなら、それに従おう!彼の内では、深く
根ざした確信があって、これは偶然ではなく、ウソと偽って真実を語る
ように、頼まれたわけではないと、告げていた。
 彼の星は、運命だった。
 明るく輝く?いや、彼の夢から来る、そのフレーズは、そのことを言
っているのではない。助動詞のフレーズでなく、名詞だ。明るく輝く?
明るく輝くものって、なんだろう?
 それと、赤と黒?チャーリーが挙げたもの、すべてを考えてみた。別
のものも。たとえば、チェッカーは、赤と黒だ。しかし、それは、捜し

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79
























































ているものではなかった。
 赤と黒。
 そう、答えがなんであるにせよ、今、彼は、全速力でそれに向かって、
走っていた。それから、逃げるのではなく。しばらくして、彼はベッド
に入ったが、眠りにつくまで、長い時間がかかった。





 
            5
 
 チャーリードアは、プライベートと書かれたインナーオフィスから出
て来て、手を差し出した。彼は言った。「よかった、ジョージ、ドクタ
ーは、すぐ面接できる」
 彼はチャーリーの手を握って、言った。「いろいろ、ありがとう、最
初の面会日の月曜に、また会おう!」
「ここで待ってる!」と、チャーリー。「1日休みを取ってることを、
忘れた?その上、たぶん、あんたは行く必要はない」彼は、チャーリー

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81
























































の手を離して、顔を見た。彼は、ゆっくり言った。「どういう意味、チ
ャーリー?たぶん、行く必要はないって?」
「なぜって━━━」チャーリーは、困ったように見えた。「なぜって、
たぶん、ドクターは、あんたは大丈夫、と言うだろうし、あるいは、あ
んたがまともになるまで、定期的に診察に来るように言うだけ、あるい
は━━━」チャーリーは、弱々しく言った。「あるいは、そんなかんじ」
 信じられないように、彼は、チャーリーを見た。彼は、自分か、ある
いは、チャーリーがクレイジーかどうか、きたかったが、この状況で
は、くこと自体が、クレイジーに聞こえるだろう。しかし、彼は、チ
ャーリーがなにかを、彼の心からスリップさせようとしていることを確
信した。チャーリーは、たぶん、今、ドクターと話した際に演じていた、
と彼が思う役割に没頭していただけなのだ。彼はいた。「チャーリー、
忘れてないよね━━━」この質問でさえ、あっけにとられて彼を見つめ
ているチャーリーに、残りをくことは、正気の沙汰さ たではないように思
えた。答えは、チャーリーの顔に出ていた。チャーリーの唇かくちびるら発する
までもなかった。
 チャーリーは、また、言った。「オレは、もちろん、待ってる、グッ
ドラック、ジョージ」
 彼は、チャーリーの目を見て、うなづいた。それから振り返って、プ
ライベートと書かれたドアの中へ入った。背後でドアを閉め、デスクの

84

83
























































後ろに座っている男を、少し見た。彼が入ると、男は立ち上がった。大
男で、広い肩幅、鉄のような灰色の髪。
「ドクターアービング?」
「そう、ミスターバイン、どうぞ、座って!」
 彼は、ドクターに勧められた、デスクの前の座り心地良さそうな、ふ
かふかのアームチェアに座った。
「ミスターバイン」と、ドクター。「この種の最初の面会は、いつも少
しやっかい。患者にとっては、つまり、あんたがオレのことをよく知る
までは、自分のことをしゃべりたがらない、自然な無口を克服するのが
難しい。自分の好きなようにしゃべるか、質問される形式にするか、ど
っちにする?」
 これについては、考えてあった。彼は、ストーリーを準備してきたが、
控え室でのチャーリーとのやり取りが、すべてを変えてしまった。
 彼は言った。「おそらく、質問してもらった方がいい」
「よろしい」ドクターアービングの手にはエンピツ、デスクの上には紙。
「生まれは、どこで、いつ?」
 彼は、深くため息をついた。「オレの知る限り、コルシカ島。176
9年8月15日。生まれたときのことは、もちろん、全く覚えてない。
けれど、コルシカ島での少年時代のことは覚えている。10才までそこ
にいて、その後、ブリエナの学校に送られた」

86

85
























































 書く代わりに、ドクターは、エンピツの先で紙を軽くたたいた。彼は
いた。「今は、何年何月?」
「1947年8月。そう、つまり、オレは、170数才になることは分
かる。あんたは、オレがどう、それを説明するか知りたいだろう。オレ
は説明しない。ナポレオンボナパルトが、1821年に死んでる事実も
説明しない」
 彼はイスの背に寄りかかり、腕を組んで、天井を見つめた。「オレは、
そのパラドックスや矛盾を説明しない。そのように認識してるだけ。し
かし、オレの記憶によれば、論理的矛盾を別にして、オレは27年間、
ナポレオンだった。そのあいだになにがあったか、話さない。歴史の本
に書かれている。
 しかし、1796年、ロディの戦いのあと、軍隊の補給のためにイタ
リアにいたのだが、オレは眠りについた。オレの知る限り、だれでもど
こでも、いつでも眠りにつける。しかし、目覚めたとき、どのくらい寝
ていたかはどうでもいいが、オレは、この町の病院にいた。そして、オ
レは告げられた。オレの名前は、ジョージバイン、今は1944年で、
オレは27才だと。
 27才だということは、その通りで、それがすべて。絶対的に。ジョ
ージバインの人生については、事故のあと病院で目覚めた、それ以前の
ことは、一切、記憶にない。今、知っているのは、みんなに教わったか

88

87
























































らだ。
 彼がいつ、どこで生まれて、どこの学校に行ったか、ブレード社で仕
事を始めたことは、知っている。軍隊に行ったことも。足を負傷したあ
と、ヒザを痛めて、1943年末に、除隊になった。戦闘ではなく、事
故で、ケガを負ったが、オレの、つまり、彼の除隊との、精神医学的つ
ながりは、ない」
 ドクターは、エンピツのいたずら書きをやめて、いた。「あんたは、
この3年間ずっと、そのように、感じてきた。それを、秘密に?」
「そう、事故のあと、考える時間があった。そして、オレについて、み
んなが言う通りにしよう、と決心した。みんなは、もちろん、オレをひ
とりにした。ついでに、オレは、みんなへの返答を考え始めた。時間に
ついての、ダンの理論を勉強した。チャールズフォートも!」彼は、突
然、ニヤリとした。「カスパーハウザーを読んだことは?」
 ドクターアービングは、うなづいた。
「たぶん、やつの方が、オレより、うまく演じられる。どれだけ多くの
記憶喪失者が、それ以前のまったく違う記憶を、事実とは認めずに、あ
る日以前のことをすべて忘れたふりをしているのか、と疑問に思う」
 ドクターアービングは、ゆっくり言った。「あんたのいとこが言うに
は、あんたは、事故前、ナポレオンの話題に、いとこの言葉では、『染
まって』いたそうだ。それについては?」

90

89
























































「オレは言ったように、なにも計算してない。しかし、チャーリードア
がなんと言おうと、オレは、事実を証明できる。外見上、オレは━━━
オレがジョージバインだとして、ジョージバインは━━━ナポレオンに
かなり興味があったようだ。彼についての本を読み、ヒーローとあがめ、
よく彼の話をした。それでブレード社の仲間たちは、彼を『ナッピー』
というニックネームで呼んだ」
「あんたは、あんたとジョージバインを区別しているようだ。あんたは、
あんたで、彼ではないと?」
「3年間は、彼だった。それ以前は、ジョージバインであった記憶はな
い。オレはジョージバインでなかった、と思う。オレが思うに、3年前
に、オレは、ジョージバインの体で目が覚めたのだ」
「170数才であることは?」
「なんの考えもない。ついでに、オレは、この体が、ジョージバインの
ものであることは疑いを持ってないし、彼の知識を受け継いでいる、個
人的な記憶を除いて。たとえば、新聞社でいっしょに働く同僚を誰も覚
えてないが、仕事はちゃんとできる。ほかにたとえば、英語ができるし、
書ける。タイプライターも打てる。オレの手書きの文字は、彼のと同じ
だ」
「あんたが、バインでないなら、それらのことはどう考える?」
 彼は、前のめりになった。「オレの一部は、ジョージバインだと思う。

92

91
























































しかし、もう一部は、違う。たぶん、日常とかけ離れた場所で、ある干
渉が起こったのだ。それは、かならずしも、超自然的という意味ではな
いし、オレが正気でないことにもならない。だろ?」
 ドクターアービングは、答えなかった。代わりに、いた。「あんた
は、3年間、理解できない理由から、このことを秘密にしてきた。今、
たぶん別の理由から、話そうと決意した。別の理由とは?態度を変えた
理由とは?」
 それは、彼を悩ませていた質問だった。
 彼は、ゆっくり言った。「なぜなら、オレは一致を信じられなくなっ
たから。状況が変わったから。ふりをするのに疲れたから。真実をあば
くために、パラノイアとして入院するリスクをあえて負おうとしたから」
「状況が変わったとは?」
「きのう、上司から、仕事で、気違いのふりをするよう言われた。その
気違いのタイプが、あるとして、オレのタイプだった。確かに、オレは、
自分が正気でない可能性を認めている。しかし、自分が正気だとする理
論に基づいて、行動している。あんたも、自分がドクターアービングで、
自分はまともだという理論に基づいて、行動している。しかし、自分が
誰なのかを、どうやって知った?もしかしたら、あんたは正気ではない
かもしれない。しかし、あんたは、自分が正気だと考えて、行動してい
る」

94

93
























































「あんたは、あんたの上司が、筋書きの一部として、あんたと対立する
ものとして登場すると考えている?なにかの陰謀によって、入院させら
れると?」
「分からない。きのうの午後から、起こったことを話そう」彼は深いた
め息をついてから、ドクターアービングに、キャンドラーと会ったとき
のことをすべて話した。キャンドラーが、ドクターランドルフについて
語ったことや、昨夜、チャーリードアと話したこと、待合室で会ったと
きに、チャーリーがうろたえたこと。
 彼はひと通り話し終えると、言った。「それで、すべて」ドクターア
ービングの無表情の顔を、むしろ興味深く感じて、そこからなにかを読
み取ろうとした。つい、口がすべって、彼は言い足した。「あんたは、
もちろん、オレを信じてない。オレを正気でないと、考えている」
 彼はアービングの目を正面から見て、言った。「あんたには選択の余
地がない━━━オレが話したことすべてが、オレが正気でないと、あん
たに信じさせようとするためのウソであると信じるのでない限り。つま
り、あんたは、科学者として、あるいは精神科医として、オレが信じる
ことつまり、知っていることすべてが、客観的に正しいと認める可能性
を認めることができない。オレが正しい?」
「あんたが正しいようだ。それで?」
「それで、先に進めて、委任状にサインを!オレは、全面的に、それに

96

95
























































従う。ドクターエルスウォースジョイスランドルフに2人目のサインを
もらう」
「反対することは?」
「それで、なにかメリットは?」
「1つある、ミスターバイン。もしも患者が、ある精神科医に、先入観、
あるいは偏見を持っていたりした場合は、その医者にせるのは、ベス
トでない。もしも、ドクターランドルフが、あんたを落としめるような
陰謀に加担していると思うなら、別の医者を紹介できる」
 彼は、静かに言った。「オレがランドルフを選んでいても?」
 ドクターアービングは、否定するように手を振った。「もちろん、あ
んたとミスタードアが、それがいいと言うなら━━━」
「オレたちはそれがいい」
 鉄のような灰色の頭は、おごそかに、うなづいた。「承知してると思
うが、ドクターランドルフとオレが、あんたに入院をすすめるのは、監
禁するためでなく、治療による回復のため」
 彼は、うなづいた。
 ドクターアービングは、立ち上がった。「少し失礼して、ドクターラ
ンドルフに電話してくる」
 彼は、ドクターアービングが、インナーオフィスのドアから出て行く
のを見ていた。デスクの上には電話があったが、会話をオレに聞かれた

98

97
























































くないのだろうと思った。
 彼は、静かに座っていた。アービングは戻ると、言った。「ドクター
ランドルフは、手があいているそうだ。ここまでキャブを呼んだ。また、
失礼するが、いとこのミスタードアと話をしてくる」
 彼は、座っていた。ドクターが、今度は待合室の方の、反対側のドア
から出て行くのは、見てなかった。そのドアまで行って、小声の会話を
聞くことはできたが、しなかった。彼は、ただ、そこに座っていた。背
後のドアが開いて、チャーリーの声が聞こえた。「よかったね、ジョー
ジ!キャブは、もうすぐ、下に来るよ!」
 3人はエレベータで下へ降りると、キャブは、すでに待っていた。ド
クターアービングは、住所を伝えた。
 キャブの中で、途中、彼は言った。「いい天気だ!」チャーリーは、
せき払いして言った。「そうだね!」そのあと、なにもしゃべらず、みん
な黙っていた。







100

99
























































 
            6
 
 彼は、グレーのズボンをはいて、グレーのシャツを着た。えりは開い
て、自分の首を吊るすことのないよう、ネクタイは、なし。同じ理由で、
ベルトもなし。ズボンの腰まわりは、スボンが落ちないよう、ちょうど
よくボタンが掛けられた。窓から飛び降りることのないよう、窓には格
子があった。
 彼は、自室の外にいた。そこは、3階の広い遊戯室で、7人がいた。
彼は、みんなを見た。ふたりは、床に座って、ボードを床に置いて、チ
ェッカーをしていた。ひとりは、イスに座り、ずっとなにもない方向を
見ていた。ふたりは、開いた窓の手すりにもたれていた。外を見ながら、
ふつうに、何げなく、しゃべっていた。ひとりは、雑誌を読んでいた。
ひとりは、室のすみに座って、ここにはないピアノで、高速のアルペジオ
を弾いていた。
 彼は、壁にもたれて、立ったまま、ほかの7人を見ていた。ここへ来
て2時間になるが、2年間に思えた。
 
               ◇
 

102

101
























































 ドクターランドルフとの面会は、スムーズに終わった。それは、実際、
アービングとの面会の再現だった。ドクターランドルフは、明らかに、
彼のことを事前に聞いてなかった。
 それは、彼の予想通りだった。
 今、彼は、とても落ち着いた気分だった。しばらくのあいだは、考え
るのをやめて、心配もやめて、感じることもやめよう、と決心した。
 彼は、ぶらぶら歩き回った。立ったまま、チェッカーを見ていた。ま
ともなゲームで、ルール通りだった。
 ゲームをしていたひとりが、見上げて、いた。「名前は?」完全に
まともな質問だった。唯一、普通でないことがあったとしたら、同じ男
が、彼がそこにいた2時間のあいだ、同じ質問を、4回繰り返したこと
だった。
 彼は言った。「ジョージバイン」
「オレは、バシントン、レイバシントン、レイと呼んでくれ!あんたは
気違い?」
「いや」
「オレたちの、なん人かは気違いで、なん人かはまともだ。彼も」イメ
ージピアノを弾いている男を見た。「あんたは、チェッカーは?」
「できるが、うまくない」
「そう、もうすぐ食事だ。知りたいことがあったら、なんでもいてく

104

103
























































れ!」
「ここからどうやって出る?いや、待ってくれ、これは冗談なんかでな
く、まじめに、どんな手続きが必要?」
「1ヶ月に1度、あんたは、やつらとの面会に呼ばれる。いくつか質問
されて、退院か留院か決められる。時には、針で刺されることもある。
あんたのダウンフォーは?」
「ダウンフォー?なんのこと?」
「精神薄弱、躁うつ病、認知症、退行期うつ病━━━」
「それなら、パラノイアだと思う」
「よくないね。やつらに針で刺される!」ベルが、どこかで鳴った。
「ディナーだ!」ゲームをしていた、もうひとりが言った。「自殺しよ
うとしたことは?誰かを殺した?」
「いや」
「なら、あんたはAテーブルで食事できる、ナイフフォーク付きで」
 遊戯室のドアがあいた。ドアは外側にあき、立っていた守衛が言った。
「いいぞ!」なにもない空間を見つめていたひとりを除いて、みんな室
を出た。
「やつについて、なにか知ってる?」レイバシントンに、いた。
「やつは、今夜の食事は、なしだな。躁うつ病、うつの段階に向かって
いる。もしも、あんたが、つぎに来なければ、つかまって、食事させら

106

105
























































れるが、一食分、抜かされる。あんたは、躁うつ病?」
「いや」
「あんたは、ラッキーだ。気分が落ち込んで行くのは、最悪だ。着いた!
このドアの向こう!」
 そこは、広い室だった。テーブルもイスも、彼と同じグレーのシャツ
にグレーのズボンの男たちで、いっぱいだった。守衛は、彼が通ると腕
をつかんで、言った。「そこだ!あんたの席は!」
 ドアの近くの席だった。すずの皿に、まずそうな食事に、スプーンが
あった。
 彼はいた。「ナイフとフォークは?聞いたところでは━━━」
 守衛は、彼を席の方へ押しやって、言った。「7日は、観察期間。だ
れも、観察期間が終わるまでは、銀食器が使えない。座れ!」
 彼は座った。そのテーブルのだれにも、銀食器はなかった。みんな食
事をしていた。何人かは、音を立てて、だらしなく。彼は、自分の皿を
見たが、うまそうでなかった。スプーンをもてあそびながら、シチュー
の中のじゃがいものかけらいくつかと、ほとんど脂肪分のない肉を、1
・2かけら食べた。
 コーヒーも、すずのカップだった。普通のカップが、どんな凶器にな
るというのだろうか、と彼は思った。安いレストランの重たいマグカッ
プで、人を殺せるのか?

108

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 コーヒーは、薄く、めていて、ひと口も飲めなかった。座ったまま、
目を閉じた。ふたたび、目をあけると、からの皿とからのカップが目の前に
あった。左の男が、大急ぎで食事していた。存在しないピアノを弾いて
いた男だった。
 彼は思った。長くここにいたら、粗末な食事で、体重が減るだろう。
長くいるという考えには、賛成できなかった。
 しばらくして、ベルが鳴り、みんな立ち上がった。彼には分からない
合図によって、1テーブルづつ退出していった。彼のグループは最後に
来たので、出るときは最初だった。
 レイバシントンは、階段で彼のうしろにいて、言った。「すぐに慣れ
るさ!名前はなんて言った?」
「ジョージバイン」
 バシントンは、笑った。ドアは、彼らが入ると、外側から閉まった。
 外は、暗かった。彼は、窓の1つから、鉄格子の外を見ていた。1つ、
明るく輝く星が、中庭のにれの木の先端を照らしていた。彼の星?そう
なら、ここでは、あの星に従おう!雲が流れてきて、星をさえぎった。
 だれかが、彼のそばに立っていた。彼は振り向き、それがピアノを弾
いていた男だと気づいた。漆黒しっこくの目をして、暗い見知らぬ顔をしていた
が、急に笑い出した。まるで、秘密のジョークだったかのように。
「新入り?それとも、今、ここに?どこから?」

110

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「新入りさ。名前は、ジョージバイン」
「オレは、バローニ、音楽家。かつてはね、そう。今は━━━とにかく、
ここでなにか知りたいことは?」
「ある。ここから、どうやって出る?」
 バローニは、笑った。特別、おもしろいことがあるわけでもなく、大
笑いではなく。「まず、あんたが大丈夫だと、やつらに確信させる。心
のどこがんでいたのか話す━━━あるいは、そのことを話したくない?
オレたちのなん人かは、心が病んでいて、ほかは病んでない」
 彼は、バローニを見た。どんなふうに感じたらいいのか、迷いながら。
ついに、彼は言った。「オレは、心はんでない。オレはナポレオンだ、
と思ってるだけだ」
「あんたは、そうなの?」
「オレがなんだって?」
「あんたはナポレオン?あんたがそうでなければ、ありうることだが、
6ヶ月くらいでここを出られる。もしもあんたが、そうだったら━━━
最悪だ。たぶん、死ぬまで、ここを出られない」
「なぜ?つまり、オレがそうなら、オレは正常だから━━━」
「問題は、そこじゃない。やつらが、あんたを、正常かどうか、と考え
るか、という点だ。やつらの考え方は、こうだ。もしも、あんたが、ナ
ポレオンだと思っていれば、あんたは正常ではない。Q・E・D。あん

112

111
























































たは、ここにとどまる」
「オレが、自分はジョージバインだと確信している、と話しても?」
「やつらは、パラノイアを以前にも扱っあつかている。その上で、あんたをそ
う診断した。そして、パラノイアは、時として、そこにきると、そこ
から出ようとしてウソをつく。やつらは、きのう生まれたわけでない。
そんなことは、ちゃんとわきまえてる」
「だいたい分かるが、しかし、どうやったら━━━」
 突然、冷たい冷気が、彼の脊椎せきついを、通り過ぎた。質問を最後まで言え
なかった。やつらに針で刺される━━━レイバシントンから聞いたとき
は、なんとも思わなかったが。
 暗闇の男は、うなづいて、「自白剤」と言った。「パラノイアが、ほ
んとうのことをしゃべれる段階まで治療されたら、やつらは、ほんとう
のことを知るために、それを使う」
 彼は、巧妙なトラップに掛かったことに気づいた。彼は、たぶん、こ
こで死ぬだろう。
 冷たい鉄格子に寄りかかって、目を閉じた。そこから遠ざかる足音が
して、ひとりになったことを知った。
 目をあけて、暗闇の外を見た。今、雲が月もさえぎった。
 クレア。彼は、クレアを想った。
 トラップ。

114

113
























































 トラップがあったのなら、トラップを掛けたやつがいたはずだ。正常
なのか、そうでないのか。正常なら、彼はトラップに掛かる。そして、
トラップがあったのなら、トラップを掛けたやつがいたはずだ。あるい
は、複数の。
 彼が正常でないなら━━━。
 神よ、今、彼は正常でない、としてみよう。そうすると、物事はシン
プルになって、いつの日か、彼は外へ出られ、ブレード社の仕事に戻れ
る。たぶん、そこで働いていたすべての年数分の記憶といっしょに。あ
るいは、ジョージバインがそこで働いていたという記憶といっしょに。
それが、1つの可能性。彼がジョージバインでなかったとしよう。それ
が、もう1つの可能性。彼は正常だ。鉄格子が額にひたい当たって、冷たかっ
た。
 
               ◇
 
 しばらくして、ドアがく音がして、見回すと、ふたりの守衛が入っ
てきた。荒っぽい望みが、彼の内側から、き上がってきたが、長く続
かなかった。
「寝る時間だ、あんたたち!」と、守衛のひとり。イスにじっと座って
いる、躁うつ病の男を見て、言った。「へい、バシントン!こいつをベ

116

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ッドに運ぶのを、手伝ってくれ!」
 もうひとりの守衛は、レスラーのように髪を短く刈り込んだ、体格の
いい男で、窓の方へ来た。「あんた!あんたは、新入り?バインだろ?」
彼は、うなづいた。
「もめ事がイヤなら、いい子になる?」守衛は、右の拳をこぶし握りしめ、手
首をうしろに引いた。
「もめ事はごめんだ。もうこりごり」
 守衛は、体の力を抜いた。「オーケー!あんたが従う規則を、これか
ら教える!右の方に、空いてるベッドがある」彼は指差した。「右のひ
とつ。朝になったら、整えておけ!それまで、ベッドを使っていい。遊
戯室で物音を立てたり、もめ事が起きたら、オレたちが来て、片付ける。
オレたちのやり方で。あんたには、好きにはなれないやり方で」
 彼は、しゃべる自信がなかったので、ただ、うなづいた。振り向いて
歩いてゆき、守衛が指差した小寝室のドアを入った。そこには、2つの
ベッドがあった。昼間イスにずっと座っていた、躁うつ病の男が横にな
って、背中を真っ直ぐにして、目を見開いたまま、ひたすら、天井を見
つめていた。スリッパは脱がされていたが、服はそのままだった。
 彼は、自分のベッドに向かった。彼が他人のためにできることは、こ
の世にないことを知っていた。躁うつ病患者の一時的な仲介者として、
空白のみじめさの不可解なからを抜けて、会話する方法はなに1つなかっ

118

117
























































た。
 自分のベッドのグレーのシーツをめくると、その下に、もう1枚グレ
ーのシーツパッドがあって、それは表面は固いが、スムーズに動くパッ
ドだった。自分のグレーのシャツとズボンを脱ぐと、ベッドの足元の壁
にあったハンガーに掛けた。枕元にあるはずの、照明を消すスイッチを
捜したが、見つからなかった。しかし捜しているうちに、照明は消えた。
 外の遊戯室の照明の1つが、まだ、ついていて、それで、靴と靴下を
脱いで、ベッドの下に置いた。
 彼は、しばらく、静かに横になっていた。2つの物音が、かすかだが、
遠くに聞こえた。遊戯室の外の別の小寝室で、だれかが、静かに、自分
のために、歌詞なしのハミングで歌っていた。この室では、ルームメイ
トの寝息さえ、聞こえなかった。
 そのとき、裸足はだしのすばやい足音が聞こえて、だれかがドアのところに
来て、言った。「ジョージバイン!」
「なに?」彼は言った。
「シーッ!声が大きい!バシントンだ。あの守衛について、伝えたいこ
とがある。前に警告すべきだった。やつにはさからうな!」
さからってない」
「あんたは頭がいい、と聞いている。やつは、チャンスがあれば、あん
たを八つ裂きにする。やつは、サディストだ。守衛の多くが、そうだ。

120

119
























































それが、ここをバグハウスと呼ぶ理由だ。やつら自身が、ここをそう呼
んでいる。どこかでやつらに火がついたら、ほかにも広がってゆく。や
つは、また、来る、朝になったら。オレはあんたに警告したかったんだ」
 ドアのところの影は、消えた。
 彼は、ぼんやりしたところに横になっていた。まったくの暗闇で、考
えている気がした。迷っていた。正気でなくなったら、人は、どうやっ
てそれを知る?それを語れる?すべての人は、自分で信じているものを、
どう信じられる?
 静かに、彼の近くのベッドに横になっている、正常な人の理解を越え
た、人間性を失い、深いあわれさに達したやつのように━━━
「ナポレオンボナパルト!」
 はっきりした声が聞こえた。彼の心の中だったのか、そうでなかった
のか?彼は、ベッドの上に、座った。彼の目は、ぼんやりしたものを抜
けて、なんの形もなんの影も、ドアのところに見い出せなかった。
 彼は言った。「イエス?」






122

121
























































 
            7
 
 少しして、ベッドの上に座ったまま、きちんと答えた。「イエス!」
声は、彼を呼んだのだと悟った。
「起きて、服を着ろ!」
 彼は、ベッドのはしから足を跳ね上げて、立ち上がった。シャツを取り、
腕を通して、いた。「なぜ?」
「真実を知るためだ」
「あんたは、だれ?」彼はいた。
「声に出してしゃべるな!声は、聞こえてる。オレは、あんたの中にい
る、あるいは、外に。名前はない」
「では、あんたは、なに?」彼は、つい、声に出してしゃべった。
「明るく輝くものの、使いだ!」
 彼は、手に持っていたズボンを、落とした。ベッドのはしに、注意深く
座り、前かがみになって、ズボンを捜した。
 心も捜していた。正体が分からないものを捜した。そして、疑問にた
どり着いた。1つの疑問。ここでは声に出してくことは、できなかっ
た。彼は、心の中に集中した。ズボンを真っ直ぐにして、足を入れなが
ら。

124

123
























































「オレは、正気ではない?」
 いや、という答えが、話された言葉のように、クリアにやって来た。
それは話されたのだろうか?あるいは、彼の心の中だけの声だったのか?
 靴を見つけて、はいた。靴ひもを結んでいるときに、考えた。「明る
く輝くものって?」
「明るく輝くものは、地球だ。オレたちの惑星の知性だ。太陽系におけ
る、3つの知性のうちの1つだ。宇宙における、多くの知性の中の1つ
でもある。地球が1つ、それは、明るく輝くものと呼ばれている」
「オレには分からない」彼は考えた。
「それなら、分かる旅に出よう!準備OK?」
 靴ひもを2つとも結んで、立ち上がった。声は言った。「さぁ、出発
だ。静かに歩け!」
 
               ◇
 
 彼の体に、物理的に接触するものはなかったが、ほとんど完全な暗闇
の中を進んでいる気がした。彼に付き添う、物理的な存在は見えなかっ
た。静かにつま先立ちで歩いたが、なにかにぶつかったり、つまづいた
りすることなく、自信を持って先に進んだ。遊戯室と思われる広い室を
抜けると、前にかざした手が、ドアノブに触れた。

126

125
























































 彼が静かに、ドアノブを回すと、ドアは内側に少し開いた。光がまぶ
しかった。声は言った。「待て!」彼は、微動だにせずに、待っていた。
音が聞こえた━━━紙をこする音、ページをめくる音━━━ドアの外側
の、明るい廊下のどこか。
 そのとき、広間を抜けて、鋭い悲鳴が聞こえた。イスを引きずる音、
悲鳴のした方へ走る、廊下の足音。ドアが開く音がして、閉まる音がし
た。
 声は言った。「来い!」彼はドアを全開にして、室を出て、遊戯室の
ドアの外側にあった、デスクや誰もいないイスを通り過ぎた。
 つぎのドア、つぎの廊下。声は言った。「待て!」声は言った。「来
い!」このときは、守衛は眠っていた。つま先立ちで、通り過ぎた。降
りる階段。
 彼は、質問を考えた。「どこへ?」
「気違い」声は言った。
「しかし、さっき、あんたは、そうじゃないって━━━」彼は、声に出
してしゃべり、その質問の答え以上に、びっくりする声だった。彼の言
葉のあと、沈黙が来て━━━階段の下から、コーナーを回って━━━キ
ーボードが叩かれる音、誰かの声。「はい?オーケー、ドクター、すぐ
行く」足音、エレベータの閉まる音。
 彼は、残りの階段を下りて、コーナーを回った。広い室の前にいた。

128

127
























































キーボードの置かれた空のデスクがあった。それを通り過ぎて、正面の
ドアのところに行った。ボルトが掛かっていたが、彼は、重いボルトを
はずした。
 外へ出た。夜の中へ。
 彼は静かに歩いて、舗装道路を抜けて、ジャリ道も抜けて、それから、
靴は芝生の上に出た。もう、つま先立ちする必要はなくなった。今、そ
こは、象の中のように暗かった。近くに木々がある感じがして、彼の顔
に、木々の葉が時々触れた。それでも、さっさか自信を持って歩き、手
を前にかざすと、ちょうど、レンガの壁に触れた。
 彼は壁をのぼり、一番上に手を掛け、体を押し上げて、乗り越えた。壁
の上には、砕いたガラスが並べてあった。服を切って、手も切ったが、
痛みは感じなかった。血の濡れた感じと、血のべたつきを感じた。
 照明のある道を歩き、暗い、なにもない道を歩いた。暗い路地を下っ
た。裏庭の門をあけ、ある家の裏のドアのところへ進んだ。ドアをあけ
て、中へ入った。家の正面に、照明のいた室があり、廊下のはしから、
照明の四角が見えた。廊下を進んで、照明のいた室に入った。
 デスクに座っていた人物が、立ち上がった。だれか、男だが、その顔
に見覚えがあるのに、名前を思い出せない。
「イエス」と、男。笑いながら。「あんたは、オレを知っている、しか
し、思い出せない。あんたの心は、部分的に、コントロールされていて、

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オレを認識する能力は、ブロックアウトされている。壁の上のガラスで
切ったが痛みを感じない、無痛覚症を除いて、あんたの心はまともで、
あんたは正気」
「そもそも何のため?」彼はいた。「なぜ、ここへ連れて来られた?」
「それは、あんたが正気だから。正気ではないように、扱われたことは、
非常にすまないと思っている。あんたが移動させられた際、前の記憶を
維持していたことは、まずありえないことだったが、起こってしまった。
あんたは、ありえないなにか━━━明るく輝くものを、ある程度は知っ
ていた。赤と黒のゲームについても。そのため━━━」
「そのためって?」彼はいた。
 知っていて知らない男は、やさしく笑った。「そのため、あんたは残
りも知らなければならない、その結果、なにも知らなくなるだろう。な
にも知らなければ、どんなことでも追加できる。真実は、あんたを気違
いにしてしまう」
「どうも、信じられない」
「もちろん、信じなくてよい。たとえ真実が分かってしまったとしても、
それがあんたを気違いにすることはない。しかし、遠くから、真実を知
ることはできない」
 彼の内部で、パワフルないかりが湧き上がってきた。彼は、知っていて
知らない男の馴染みのある顔を見つめた。そして、自分の姿も。破れて、

132

131
























































血だらけのグレーの制服に、破れて、血だらけの両手。両手は、かぎ爪
のように折り曲げて、目の前の獲物に襲い掛かろうとしていた━━━誰
か、誰かが誰であろうと、目の前に立っているやつに。
 彼はいた。「あんたは、なに?」
「明るく輝くものの、使いだ!」
「ここに連れて来てくれたやつも、同じことを言った。もうひとり?」
「ひとりは、すべてのため、すべては、ひとりのため。全体も部分も、
違いはない。ひとりの使いは、もうひとりの使いでもある。赤は黒であ
り、黒は白でもある。違いはない。明るく輝くものは、地球の魂たましい。魂たましい
というのは、あんたのボキャブラリーの中で、最も近いものとして、使
わせてもらった」
 憎しみは、まさしく、明るく輝くものとなった。それは、まさしく、
彼が寄りい、命をける大切なものとなった。
 彼はいた。「明るく輝くものって?」それは、彼の口からのろいのよ
うにき出された。
「知れば、あんたを気違いにしてしまう。それでも、聞きたい?」
「イエス!」単音節のシュー音から、のろいをき出した。
 照明が、少し暗くなった。目のせいだろうか?室は、だんだん暗くな
り、同時に、ちぢみ始めた。どこか離れた、外側の、遠い暗い場所から見
ているかのように。さらに、ちぢみ続け、光の点になった。その光の点の

134

133
























































中に、まだ、憎らしい男が━━━ほんとうに、男なのだろうか?━━━
デスクの脇に立っていた。
 暗闇の中へ、宇宙へ、上へ、地球から離れて、夜の薄暗い球体、星々
がまばたく、黒の円盤の永遠の宇宙に散りばめられた、暗闇にふち取られ
ちぢみゆく球体。
 ちぢむのがむと、時間も止まった。それは、まるで、宇宙の時計が、
静かに立っているかのようだった。彼の脇、空虚の外で、輝くものの使
いの声が聞こえた。
「見よ!」と、声。「地球の存在を!」
 彼は見た。外側の変化ではなく、内側の変化を。まるで、彼の感覚が、
変化して、今まで見えなかったものが、見えるようになったかのように。
 地球だった球体が、だんだん、大きくなり始め、輝き出した。
「あんたは、地球を支配している知性を、見ているのだ」と、声。「黒
と白と赤の集合は、脳葉として分けられるだけの、三位一体の統一体」
 球体は、どんどん大きくなり、背後の星は消え、暗闇は、ますます濃
くなった。そのとき、っすらとした光が現われ、ますます明るくなっ
た。彼は、デスクの男の室に戻った。
 
               ◇
 

136

135
























































「あんたは、見た」と、男、彼が憎むやつ。「しかし、理解してない。
なにを見たかと聞かれたら、明るく輝くものと答える?それは、知性の
集合であり、地球の真の知性であり、太陽系の3つの知性のうちの、1
つ。宇宙の多くの知性のうちの、1つ。
 それでは、人間とはなにか?人間は、チェスのポーンであり、あんた
にとっては、信じられないほど複雑な、赤と黒と白と黒の、娯楽のため
のゲームの中にいる。社会の一部のために、他の一部に対抗して、永遠
の中の一瞬を、ブラブラ過ごしている。銀河間で行われている、人間が
登場しない、もっと大きなゲームもある。
 人間とは、地球固有の寄生虫である。地球は、少しのとして、それ
を耐え忍んでいる。人間は、宇宙のどこにも存在しないものであり、こ
こでも、はるか先にはもはや存在しない。ここに存在するのも少しの
で、わずかなチェス盤の戦いを、人間は自分で戦っていると思っている
━━━あんたは、理解し始めた?」
 デスクの男は、微笑ほほえんだ。
「あんたは、自分がなにものか知りたがっている。重要でないものはな
い。ロディの戦いの前に、1手が指された。赤軍の1手のチャンスが、
そこにあった。より強く、もっと情け容赦のない人物が、必要とされた。
それは、歴史のターニングポイントだった。それが意味することは、ゲ
ームだ。やっと、理解した?皇帝になるべきピンチヒッターが、投入さ

138

137
























































れた」
 彼は、2語を発した。「それで、どうした?」
「明るく輝くものは、殺しはしない。あんたは、どこか別の場所、別の
時間に移された。ずっとのちに、ジョージバインという男が事故で死ん
だ。彼の体は、まだ、使えた。ジョージバインは、気違いではなかった
が、ナポレオンコンプレックスがあった。移行させることは、おもしろ
かった」
「だろうな!」ここでも、デスクの男を殴り倒そうとしても、手は届か
なかった。憎しみが、ふたりのあいだで壁になった。「そのとき、ジョ
ージバインは死んだ?」
「イエス。そして、あんたは、あまりに多くを知ったがために、気違い
にならなくてはならず、その結果、結局、なにも知らないことになる。
真実を知ることが、あんたを気違いにしてしまうわけだ」
「ならないね!」
 使いの者は、微笑ほほえんだ。






140

139
























































 
            8
 
 室は、光の立方体は、薄暗くなった。少し、傾いたようだ。まだ、立
っている彼は、うしろに下がろうとした。立つ姿勢は、垂直というより
は、水平に近くなった。
 体重は、背中に掛かり、下には、ベッドにかれた、やわらかくて堅
いシーツパッドの感触があった。グレーのシーツ毛布の毛羽け ば立った感じ
も。彼は起き上がり、座った。
 夢を見ていたのだろうか?病院の外に、ほんとうに出たのだろうか?
腕を組んで、互いの手で腕をさわってみた。腕は濡れて、なにかベタベタ
していた。シャツの前や、ズボンのももやひざも、そうだった。
 靴は、はいたままだった。血は、壁をのぼったときのもので、無痛覚症
は、今や、去りつつあった。手が痛み出し、腰や腹や足に及んだ。鋭い
まれるような、痛みだった。
 彼は声に出して、言った。「オレは気違いなんかじゃない!オレは気
違いなんかじゃない!」叫んでいたのだろうか?
 声は、言った。「確かに、今は違う!まだ、違う!」その声は、前に、
この室で聞いた声?あるいは、明るい室に立っていた男の声?あるいは、
どちらも、同じ声?

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 声は、言った。「『人間は、なにか?』とけ!」
 反射的に、彼はいた。
「人間は、進化の上で、まわりも見えず、袋小路に迷い込んでいる。あま
りにもたついていて、いつまでたっても完成されない。常に、明るく輝
くものにコントロールされて、プレイされている。それは、人間が直立
歩行する、ずっと以前から存在していて、人間よりずっと賢いかしこ
 人間は、それが現れるずっと以前に植民された惑星の寄生虫だ。植民
したのは『存在』で、それは、1つの、そして多数、10億の細胞であ
りながら、1つの心、1つの知性、1つの意志━━━宇宙のほかの植民
された惑星でも、すべてそうだったように。
 人間は、ジョーク、道化どうけ、寄生虫。人間は、なにもないに等しい、取
るに足らないもの」
「さぁ愉快に行こう!」
 彼は、また、ベッドから出て、歩き出した。遊戯室に沿って、小寝室
のドアを通って。廊下に抜けるドアの方へ。廊下の下から、照明が薄く
漏れてくる隙間すきまがあった。しかし、このときは、彼の手は、まだ、ドア
ノブに届いてなかった。代わりに、閉まったドアに正面から向かい合っ
て立っていた。隙間すきまの光は輝き出し、ゆっくりと、明るく輝いた。
 どこからか、見えないスポットライトを浴びているかのように、ドア
は、暗黒をバックに、はっきり見える長方形となった。その下の隙間すきま

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ら、浮き出ているかのように。
 声は言った。「あんたが見ているのは、あんたの支配者の1つの細胞、
それ自身は、知性がない細胞。しかし、知性のあるユニットの小さな一
部を成す。地球を━━━そして、あんたを支配する知性の、100万の
ユニットのひとつ。そして、地球規模の知性は、宇宙を支配する100
万の知性のうちのひとつ」
「ドア?オレには、なんのことだか━━━」
 
               ◇
 
 声は、もはや、聞こえて来なかった。それは、退却した。しかし、彼
の心には、なんとなく、静かな笑い声がこだましていた。
 彼は、ドアに近づいて寄りかかり、声が言っていたものを捜そうとし
た。1匹のアリがドアをい上がっていた。
 彼の目は、アリを追った。無数の恐怖が、背筋を這い上がって来た。
彼になんども語られ、示された100の事が、突然、ひとつのパターン
に、恐ろしいホラーのパターンに行き着いた。黒、白、赤。黒アリ、白
アリ、赤アリ。人間を操るあやつるプレーヤー。単一の集合体の脳のいくつかの
脳葉。ただ1つの知性。人間は、事故で生まれたもの、寄生虫、チェス
のポーン。昆虫の1種が植民された、宇宙の100万の惑星。その惑星

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にとっては、単一の知性。そして、すべての知性が集まって、宇宙にお
ける単一の知性を成す━━━それが、神!
 単音節の言葉を、声に出せなかった。彼は、気違いになったからだ。
 彼は、今、たたいた━━━暗いドアを、血だらけの手で、ヒザで、顔で、
体全体で。なぜ、そんなことをしているのか理由も忘れて。なにが彼を
クラッシュさせたのかも忘れて。
 彼は、荒れ狂う気違いだった━━━認知症で、パラノイアでなかった
━━━彼らは、彼に拘束を着せて、解放した。狂乱から平静へと。
 彼は、静かな狂人になった━━━パラノイアで、認知症でない━━━
彼らは、11か月後に、彼を正常だとして解放した。
 パラノイアは、よく知られているように、なんら肉体的兆候はない。
単に、ある固有の妄想があるだけ。一連のメトラゾールショック療法で、
妄想は除去され、彼には、記者のジョージバインだという固有の妄想だ
けが、残された。
 病院の担当医師たちは、その通りだと考え、その妄想に異常は見られ
ず、彼を解放し、正常だという診断書を書いた。





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            エピローグ
             
 その後、クレアと結婚した。まだ、ブレード社で、キャンドラーの下
で働いている。たまに、いとこのチャーリードアとチェスをする。今も、
ドクターアービングとドクターランドルフの定期検診を受けている。
 4人のうちのひとりは、心の中で笑っている?それを知って、どうす
るというのだ?イエス、その通り!4人のうちのひとり。しかし、だれ
かなんてことは重要ではない。もう、分ったはず?重要なことなんて、
この世には、なにもないのさ!
 
 
 
                            (おわり)







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