白日夢
原作:フレドリックブラウン
アランフィールド
プロローグ
それは、一見、単純な殺人事件のように始まった。それだけでも十分
悪かった。というのは、ロッドカクアが、木星の第4衛星カリスト・セ
クター3の警部補になった5年間で、最初の殺人事件だからだ。
セクター3は、それが
誇りだった。結局、その記録は、死んだガチョ
ウのようになってしまった。
しかし、事件が片付く前は、ロッドカクアほど幸せなやつはいなかっ
た。それが、宇宙的な広がりの連続殺人にならずに、ただの殺人事件に
とどまっていた限りでは。
1
事件が始まったのは、ブザーが鳴って、ロッドカクアが通話スクリー
ンを見たときだった。
スクリーンには、セクター3署長のバルマクソンが映っていた。
「おはよう、署長」カクアは嬉しそうに言った。「昨夜の会合のスピー
チは、良かった」
「サンクス、カクア」マクソンはさえぎった。「ウィレムディームを知
ってるか?」
「本とフィルムショップ店主の?ええ、少し」
「彼は死んだ」と、マクソン。「おそらく殺人だ。現場を見ておいた方
がいい」
カクアが質問する前に、スクリーンは消えた。しかし、その質問は、
ずっと待たせておける。すでに立ち上がり、短剣のバックルを締めた。
カリストで殺人?ありえない気がした。しかし、それがほんとうなら、
急いでそこへ行くべきだ。死体が焼却炉に送られる前に、ひと目見る時
間を持てるよう、大急ぎで!
カリストでは、死体は1時間以上放置されることはなかった。それは、
やや薄い大気中どこにでもある、微細な量のハイルラ胞子のせいだった。
もちろん、それは、生きた細胞には害はなかったが、どんな種類であれ、
動物の死体に対しては、腐敗のスピードを、とんでもなく速めてしまう
のだ。
◇
医療主任のドクタースカイダーは、本とフィルムショップの正面ドア
から出て来た。そこへ、息を切らして、カクア警部補が到着した。
ドクターは、親指で肩の後ろを指して「死体を見たいのなら、急いだ
方がいい!」と、カクアに言った。「裏口から運び出されるところ!オ
レは、すでに調べたが」
カクアは走って、ドクターを通り越して、店の裏口で、白衣を着た医
療チームをつかまえた。
「ハイ、ボーイ!オレにひと目、見せて!」カクアは、ストレッチャー
の上のものにかぶせられたシーツをめくりながら、叫んだ。
それは、彼の気分を少し悪くさせたが、死体あるいは死が原因のなに
かに疑念の余地はなかった。結局は、ただの事故による死だったことが
判明することを、彼は、切に望んだ。しかし、頭部は、眉毛のところで
切り裂かれ、明らかに、体格のいい男に、重い刃物で一突きされたもの
だった。
「急いで、警部補!死体が見つかってから、もう、そろそろ1時間にな
る」
カクアの鼻は、それを確かめた。急いでシーツを戻し、医療チームに、
ドアのすぐ外に停まっている、非常灯を回している白い救急車に運ばせ
た。
彼は、歩きながら考え、店に戻り、まわりを調べた。すべては、整然
としているように見えた。ジャンルごとに区画が分けられた、長い商品
棚は、きちんと順番通りだった。反対側のブースの列は、本の顧客のた
めに拡張されて、マイクロフィルム用のプロジェクターが置かれ、そこ
は誰もいなかったが、乱れはなかった。
◇
ヤジ馬たちが店の外に少し集まっていたが、警官のブラガーが、彼ら
を店の外に押し留めていた。
「ヘイ、ブラガー!」と、カクア。警官は中へ入って、後ろ手にドアを
閉めた。
「はい、警部補?」
「事件について、なにか、知ってる?発見者は誰だとか、いつとか?」
「だいたい、1時間前に、ここへ。銃声を聞いて、すぐ来た」
カクアは、彼を、ポカンと見た。
「銃声?」繰り返した。
「走って中へ入ると、彼は死んでいて、まわりに誰もいなかった。正面
から出て行った者はいない。走って裏へ回ったが、裏口から見える範囲
には、誰もいなかった。オレは戻り、電話した」
「誰に?なぜ、オレに直接、電話しなかった、ブラガー?」
「ソリー、警部補。オレは、焦ってボタンを押し間違えて、署長につな
がった。オレは、誰かがディームを撃ったと言い、彼は、ガードのため、
そこにいろ、と言い、そして、ドクターと医療チームとあんたに電話す
ると言った」
なぜ、その順番?と、カクアは、不思議に思った。そのため、カクア
が現場に着いたのは、一番最後になった。
そのことは、あとにするとして、もっと大きな疑問があった。ブラガ
ーが、銃声を聞いたこと。もしも、それが、そうでない限り、あまり意
味はなかった。それも、バカげていて、ありえない。ウィレムディーム
が撃たれたのなら、医業チームが、検視のために、頭蓋骨を切断するは
ずがない。
「ブラガー、銃声って、どういうこと?」と、カクア。「旧式の大砲の
ような?」
「そう」と、ブラガー。「死体を見た?心臓の真上に穴、銃弾が貫通し
た跡だと思う。あんな穴を見たことない。カリストに、あんな銃がある
とは知らなかった。ブラスターよりずっと前に、違法になっている!」
カクアは、ゆっくり、うなづいた。「ほかの証拠となる傷を、見なか
った?」
彼は、がんこに言い張った。「いいえ、ない。ほかにどんな傷がある?
心臓の真上を貫通した傷が死因ではない?」
「ドクタースカイダーは、ここを出て、今、どこ?」と、カクアは訊い
た。「彼は、なんて?」
「ええ、彼は、あんたが彼のレポートを見たがるだろうから、オフィス
に戻って、あんたからの連絡を待つと言っていた。オレはなにを、警部
補?」
カクアは、少し考えた。
「隣の室の通話スクリーンを使わせてもらう、ブラガー。それで、オレ
は少し忙しくなる」カクアは、最後に、警官に命令した。「3人応援を
呼んで、4人でこのあたり一帯を封鎖して、あらゆるやつに質問しろ!」
「あんたの言う質問は、だれか裏口から出て行ったやつを見なかったか
とか、銃声を聞かなかったか?といったこと?」と、ブラガー。
「そう、ほかに、ディームについてなにか知らないかとか、彼を殺す動
機があるやつを知らないかとか」
ブラガーは、敬礼して出て行った。
◇
カクアは、通話スクリーンで、ドクタースカイダーに会った。「ハロ
ー、ドクター」と、彼。「分かったことは?」
「見たもの以外は、なにも、ロッド。明らかに、ブラスターだ、至近距
離から」ロッドカクア警部補は、自分を落ち着かせた。「ドクター、も
う一度?」
「なにが問題?」と、スカイダー。「前にブラスター殺人を見たことな
い?見てないらしいな、ロッド、あんたは若すぎる。しかし、50年前、
オレが学生だった頃は、1か月に1度は見た」
「彼の死因は?」
ドクタースカイダーは、驚いたように見えた。「あんたは、あれほど
証拠が明らかな男を、扱ったことがないようだな。あんたも、あれを見
たと思うが、左肩の肌が全部焼け焦げて、肉が露出して、骨を焦がした。
実際の死因は、ショック死だが、爆発は、生命機能を傷つけてない。あ
らゆる可能性を考えて、焼けたことは死因ではなかった。しかし、ショ
ックは瞬時にそれをなした」
夢は、こんなふうだと、カクアは自分で思った。
「夢では、意味なしに、なにかがおこる」と、彼は考えた。「しかし、
オレは夢を見てるのではなく、これは、現実だ」
「ほかに傷は?あるいは、死体に、しるしがあったとかは?」彼は、ゆ
っくり訊いた。
「なにも。提案するが、ロッド、あのブラスターを捜すことに集中した
方がいい。必要なら、セクター3全域で。ブラスターの形状は、知って
る?」
「写真で見た」と、カクア。「音は、大きい、ドクター?今まで、発射
するところを見たことがない」
ドクタースカイダーは、頭を振った。「閃光としゅうっという音がす
るが、銃声はしない」
「銃声と勘違いされることは?」
ドクターは、彼を見つめた。
「爆発銃のこと?もちろん、ない。ただ、静かに、しゅう〜う〜う〜う
というだけ。10フィート離れたら、もう、聞こえない」
◇
カクア警部補は、通話スクリーンを切って座ると、集中するために目
を閉じた。互いに相容れない観察が3セットあって、その意味を解明し
なくてはならなかった。彼のもの、パトロール警官のもの、それと、ド
クターのもの。
ブラガーは、第一発見者で、心臓の上に穴があった、ほかに傷はなか
ったと言った。彼は、銃声を聞いた。
カクアは、考えた。かりに、ブラガーがウソを言ったとしよう。それ
でも、意味が通らない。なぜなら、ドクタースカイダーによれば、弾痕
はなく、ブラスターの傷はあった。スカイダーは、ブラガーのあとに、
死体を見た。
だれかが、理論的には少なくとも、仮に、すでに死んだ男に、ブラス
ターを使ったことは考えられる。しかし━━━
しかし、それは、頭の傷を説明してない。ドクターが、弾痕を見てな
いことも説明してない。
だれかが、理論的には少なくとも、スカイダーが検死した時間と、彼、
ロッドカクアが死体を見た時間のあいだに、短剣で頭を切断したことは
考えられる。しかし━━━
しかし、それは、ストレッチャーの死体のシーツを上げたときに、な
ぜ、焼け焦げた肩を見なかったのかを、説明してない。彼は、弾痕を見
逃したかもしれない。しかし、ドクターが述べたような状態の肩は、見
逃さなかっただろうし、見逃すことはありえなかった。
まわり廻って、最終的に、徐々に分かってきたことは、ただ1つの説
明が可能だということだった。どんなおかしい理由があろうと、医療チ
ームがウソを言っているということだった。それは、もちろん、彼、ロ
ッドカクアが、ブラガーが見たと言った弾痕を見逃したことになるが、
それはあり得た。
しかし、スカイダーの話も、ほんとうではあり得なかった。スカイダ
ー自身も、検視時に、頭に打撃を加えることが可能だった。そして、肩
の傷について、ウソを言うことができた。なぜ━━━彼が正気だったと
して━━━そのようなことをしたのかは、カクアは想像できなかった。
しかし、それが、すべての要素を整合させられる、ただ1つの説明だっ
た。
しかし、今ごろはすでに、死体は焼却されているだろう。それは、ド
クタースカイダーに反対する、彼の初めて言葉となるだろう。
しかし、待てよ!医療チームのふたりは、ストレッチャーに乗せると
きに、死体を見ているに違いない!
急いで、カクアは立ち上がり、通話スクリーンを医療チーム本部につ
ないだ。
「1時間弱前に、9364番地の店から、死体を運んだメンバーは、も
う、報告に来た?」と、彼。
「少し待って、警部補!ええ、ひとりは仕事を終えて帰ったが、もうひ
とりは、ここに!」
「彼とつないで!」
ロッドカクアは、スクリーンに映った男を見た。それは、医療チーム
のふたりのうちのひとりで、急いでと言った男だった。
「はい、警部補?」と、男。
「あんたは、死体をストレッチャーに乗せるのを手伝った?」
「もちろん」
「死因は、なんだと言う?」
白衣の男は、疑るように、スクリーンからこちらを見た。
「冗談を、警部補?」彼は、ニヤリとした。「だれが見ても、死因は明
らか!」
カクアは、顔をしかめた。
「けれど、いくつかの意見に相違がある。あんたの意見が聞きたい」
「意見?男が頭を真っ二つにされて、どんな意見に相違が、警部補?」
カクアは、努めて、冷静にしゃべろうとした。
「いっしょにいた仲間も、同じ意見?」
「もちろん!オレたちは、2つの部分を、いっしょにストレッチャーに
乗せなければならなかった。死体をふたりで運び、それから、ウォルタ
ーが頭を持ち上げて、胴体のとなりに置いた。殺人は、粉砕ビームでな
された?」
「あんたは、それについて、ウォルターとは、しゃべった?」と、カク
ア。「あんたとウォルターのあいだに、詳細についても、意見の相違は
なかった?」
「考えてみると、あった!それが、さっき、あんたに、粉砕ビームかど
うか訊いた理由。火葬にしたあと、ウォルターは、切り口が、まるで、
だれかにオノかなにかでなんども何度も切りつけられたかのように、ギ
ザギザだったと、オレに言った。しかし、切り口は、オレが見たところ、
スパッときれいに切られていた」
「頭蓋骨を上から一撃した武器については、なにか気づいた?」
「いいえ、でも、警部補も、よく見てはなかったんでは?なにか、まず
いことでも?」
それは、ロッドカクアのそもそもの出発点だった。最初に彼が、単純
な殺人事件であって欲しいと願ったことを、だれも責められない。
数時間前、カリストの無殺人記録が破られただけで、十分悪かった。
しかし、そのあと、状況は、もっと悪くなった。そのあとどうなるのか
分からなかったが、まだ悪くなり続けていた。しかし、まだ、始まりに
過ぎなかった。
2
今、夜の8時だった。カクアは、まだ、自分のオフィスにいて、デス
クのジュラプラスト製の表面に置かれた、812フォームを、見つめて
いた。フォームには、いくつかの質問があった。単純なものばかりだっ
た。
死亡者:ウィレムディーム
職業:店主 (本とフィルムショップ)
自宅住所:アパート8250、セクター3、カリスト
店舗住所:ショップ9364、S・T、カリスト
死亡時刻:およそ午後3時、カリスト標準時
死因:
そう、5番目の質問までは、スムーズに進んだ。しかし、6番目は?
彼は1時間以上も、その質問を、見つめていた。カリスト時間の1時間
だったが、地球の1時間と、それほど違いはなかった。しかし、同じ質
問を見つめながらだと、ずっと長く感じた。
しかし、なんてことだ!、なにか、書かなくてはならなかった。
その代わりに、通話スクリーンまで行って、ボタンを押した。瞬時に、
ジェーンゴードンがスクリーンから、こちらを見た。ロッドカクアも、
見返した。彼女には、見るだけの価値があった。
「ハロー、アイシクル!」と、彼。「今夜は、仕事で、そこへ行けそう
にない。許してもらえる?」
「もちろん、ロッド!なにか、まずいこと?ディームの件?」
彼は、憂鬱そうに、うなづいた。「デスクワークさ!フォームや報告
をまとめないと、署長に帰してもらえない」
「彼は、どんなふうに殺された、ロッド?」
「ルール65」と、彼は笑いながら言った。「未解決事件の詳細を、市
民に明かすことを禁ずる」
「ルール65がじゃまね!父は、ウィレムディームを良く知っていて、
彼は、よく、うちに遊びに来た。ディーム氏は、実際上、我が家の友人
だった」
「実際上?」と、カクア。「つまり、あんたは彼が好きでなかった、ア
イシクル?」
「そう、好きじゃなかった。彼は、聞くのに興味があって、少し、いや
みを言う野獣だった。ロッド、彼はユーモアの意味を踏み違えていたと
思う。どんなふうに殺されたの?」
「それを言ったら、それ以上は、なにも聞かないと約束してくれる?」
と、カクア。
彼女の目は、パッと輝いた。「もちろん!」
「彼は、撃たれた」と、カクア。「爆発銃とブラスターで。だれかが、
短剣で彼の頭蓋骨を割り、斧と粉砕ビームで粉砕した。ストレッチャー
に乗せられたあと、だれかが頭を元に戻した。なぜなら、オレが見たと
き、それは割れてなかった。そして、弾痕を付けた。それから」
「ロッド、もうやめて!」と、娘。「言いたくないなら、もういい!」
ロッドはニヤリとした。「怒らないで!どう、父さんは元気?」
「とても!今、彼は寝ている。明らかに、とても元気になって、来週、
大学に戻れそう。ロッド、あなた疲れているように見える。いつまでに、
フォームを書けばいいの?」
「事件後24時間」
「それなら、問題ない、今すぐ、ここへ来て!旧式のフォームなんて、
明日の朝、やればいい!」
彼女は笑い掛け、彼は折れた。
「分かった、ジェーン」と、彼。「途中、事件のあったパトロール区域
で、報告を受けてから」
だが、報告は、彼が待ち望んでいたものだったが、パッとしなかった。
非常線は完璧だったが、有益な情報は、なにも得られなかった。ブラガ
ーが到着する前に、だれも、ディームショップから出て来た人物も、そ
こへ行った人物も見てなかった。ディームの隣人たちのだれも、彼の敵
となる人物を知らなかった。だれも、銃声を聞いてなかった。
ロッドカクアは、警官たちの苦労をねぎらって、彼らの報告書をポケ
ットにしまった。彼は、事件のあった場所から、ゴードン家に向かって
歩きながら、疑問に思った。このような事件を、探偵だったら、どう解
決する?
そう、数年前、地球で大学生だったころ、読んだ探偵小説をことを思
い出した。探偵は、いつも、だれかが言ったことの矛盾点を突いて、そ
いつを追い詰めて行く。だいたいは、乱暴なやり方も使って。
ウィルダーウィリアムスは、すべての探偵小説の中で最高の探偵だっ
た。彼は、男を見て、服の切れ端や手の形から、男の全生涯を演繹法で
推理して知ることができた。しかし、ウィルダーウィリアムスは、目撃
者がいて、多くの方法で殺された男を調べたことはなかった。
◇
彼は、ジェーンゴードンと、楽しいが、虚しい晩を過ごした。また、
彼女に結婚を申し込み、そして、ふたたび、断られた。しかし、これは、
いつものことだった。彼女は、この晩は、いつもより少し冷淡だった。
それは、たぶん、ウィレムディームについてしゃべることを、彼が拒否
したことに腹を立てていたからだった。
帰宅すると、ベッドへ。
彼のアパートの窓からは、光が漏れ、巨大なモンスターボールのよう
な木星が、夜空をグリーンブラックに染めながら、空に低く垂れ下がっ
ているのが見えた、彼はベッドに横になり、まぶたが重くなり閉じてし
まうまで、見てられるだけずっと、それを見ていた。
3
ウィレムディームは死んだ。ウィレムディームについて、彼はなにを
しようとしていた?まわり廻って、最終的に、秩序立った考えが、混沌
のカオスの中から現れて来るまで。
つぎの日の朝になったら、ドクターに連絡する!頭にあった短剣の傷
のことは言わないで、スカイダーに、ブラガーが心臓の真上にあったと
主張する弾痕のことを、質問してみよう!もしもスカイダーが、ブラス
ターによる火傷が、唯一の傷だったと言うなら、ブラガーを呼び出して、
ドクターと対決させよう!
それから、そう、彼は、そこへいったら、どうするといったことばか
り考えている。これでは、決して眠りに就けない。
彼は、ジェーンのことを考えた。すると、眠りに就いた。
しばらくして、彼は夢を見た。ほんとうに、夢?もしもそうなら、彼
はベッドに横になりながら、夢を見たことになる、完全には目覚めてな
くて、それから、室のあらゆる隅から、ささやきが聞こえた。暗闇から
も、ささやき。
巨大な木星が、今、空を横切ろうとしていた。窓は、ぼんやりして、
窓枠は、ほとんど見分けられなかった。室の残りは、暗闇だった。ささ
やき。
「やつらを殺せ!」
「あんたは、やつらを憎んでいる、憎んでいる、憎んでいる」
「殺せ!殺せ!殺せ!」
「セクター2は、みんな、うまい汁を吸っている。セクター3がすべて
働かされている。やつらはオレたちのコーラ農園を搾取している。やつ
らは悪だ!やつらを殺せ!乗っ取れ!」
「あんたは、やつらを憎んでいる、憎んでいる、憎んでいる」
「セクター2は、みんな、弱虫か高利貸しだ。やつらは、火星人の血を
引く汚点だ。それを払い落とせ!火星人の血を払い落とせ!セクター3
がカリストを支配すべきだ。3は、神秘の数字。オレたちは、カリスト
を支配するよう運命付けられている」
「あんたは、やつらを憎んでいる、憎んでいる」
「殺せ!殺せ!殺せ!」
「火星人の血は、高利貸しの悪党だ!あんたは、やつらを憎んでいる、
憎んでいる、憎んでいる」
ささやき。
「今だ、今、今」
「やつらを殺せ!殺せ!」
「190マイル平野を走るだけ!モノカーなら1時間で行ける!先制攻
撃!今だ!今!今!」
ロッドカクアは、ベッドから出て、急いで手探りで、電気をつけず、
盲目的に服を着た。なぜなら、これは夢で、夢は暗闇にあったからだ。
彼の短剣は、ベルトの鞘の中にあった。彼はそれを抜くと、刃に触っ
た。刃は鋭く、これから殺しに行く、敵の血を払い落とす準備ができて
いた。
今、それは、赤の死の弧を描こうとしていた。彼の純粋種でない短剣、
時代錯誤の短剣、保安官オフィスの権威あるバッジだった。彼は、怒り
から短剣を抜いたことはなかった。短剣はずんぐりしたシンボルだった、
珍しい18インチ長、けれど、心臓に達するに十分、4インチでそこに
届いた。
ささやきは続いた。
「あんたは、やつらを憎んでいる、憎んでいる、憎んでいる」
「悪の血を払い落とせ!殺せ!払い落とせ!殺せ!払い落とせ!」
「今だ、今、今、今」
短剣を抜いて、しっかり握りしめ、彼は音もなくドアから出て、階段
を降り、別のアパートの前を過ぎた。
別のドアもいくつか開いた。彼は、ひとりではなかった、暗闇の中に
いた。ほかの人影も、暗闇の中を、彼と共に移動した。
彼は音もなくドアを出たあと、通りの夜冷えのする暗闇の中へ、通り
の暗闇は、明るく照らされているはずだった。それは、これが夢だとい
うもう一つの証拠だった。通りの照明は、暗くなってからは、決して消
されることはなかった。薄暮から夜明けまで、照明は決して消されなか
った。
しかし、水平線上にある木星が、見るのに十分な光を与えてくれた。
天国の丸いドラゴンのように、悪のような赤のスポット、悪意のある目。
ささやきが、夜の中で、息づいていた。彼のあらゆる周囲からささや
きが来た。
「殺せ!殺せ!殺せ!」
「あんたは、やつらを憎んでいる、憎んでいる、憎んでいる」
ささやきは、彼のまわりの影のような人影から来るのではなかった。
ささやきは、彼が進むと、音もなく前へ進んだ。
ささやきは、夜そのものから来ていた。今、ささやきは、音程を変え
始めた。
「待て、今夜じゃない!今夜じゃない!今夜じゃない!」
「戻れ!戻れ!戻れ!」
「家に戻れ!ベッドに戻れ!あんたの眠りに戻れ!」
彼の周りの人影たちも、そこに立ち止まった。彼がしたのと同じよう
にぐずぐずしていた。それから、ほぼ同時に、みんな、ささやきに従っ
た。後ろに向き直り、今来た道を戻り、そして静かに━━━
4
ロッドカクアは、目が覚めると、軽い頭痛を感じた。二日酔いの気分
だった。太陽は、すでに、小さいが輝きながら、空に上っていた。
時計は、いつもよりずっと遅いことを告げていた。しかし、もう数分、
横になっていた。同じ姿勢のまま、昨夜の奇妙な夢を思い出していた。
夢は、目覚めたときは、ちゃんと思い出せる。完全に目覚める前までは。
しかし、少しすると、完全に忘れてしまう。
バカげた種類の夢だった。狂った、目的のない夢。先祖返り?人々が、
互いに、相手の喉を掻き切ることばかり考えていた時代、戦争と憎しみ
と覇権を争っていた時代へ、逆もどり。
それは、太陽議会ミーティングが、居住可能なある惑星で、さらに別
の惑星で開かれる以前の話だった。ミーティングでは、裁定によって秩
序が作られ、のちにユニオンとなった。そして、今、戦争は過去の遺物
となった。太陽系の居住可能な場所、地球、金星、火星、それに、木星
の2つの衛星は、1つの政府の統制下にある。
しかし、古い血の日々に立ち返れば、人々は、昨夜の先祖返りの夢で
彼が感じたような感情を抱くに違いない。地球が恒星間飛行を発見し、
統一されると、火星━━━知力の優れた種族によって、すでに植民地化
されていた、唯一の他の惑星━━━を服従させた。それから、人類が足
跡を付けたどんな場所にも植民地を広げて行った。
それら植民地のあるものは、独立を求め、つぎに、覇権を争った。血
の世紀、その時代は、そう、今、呼ばれている。
服を着るためにベッドから出ると、彼を惑わせ、ろうばいさせるよう
なものを見た。服は、きちんと折りたたまれて、ベッドの脇にあるイス
の背に掛けられてなかった。代わりに、それは、暗闇の中で急いで、不
注意に服をぬいだかのように、床一面にまき散らされていた。
「なんてこと!」と、彼は考えた。「昨夜、オレは眠りながら歩いた?
オレは夢を見ながら、実際にベッドから出て、通りへ出て行ったのか?
だれかが、オレにささやいたときに?」
「違う!」と、彼は自分に言った。「オレは睡眠中に出歩いたことは今
までなかったし、これからもない!昨夜、服をぬいだとき、不注意だっ
ただけだ。オレは、ディームの事件のことを考えていた。それで、服を
イスの背に掛けるのを忘れたのだ」
彼は、すぐに制服を着ると、保安官オフィスへ急いだ。朝の光が、昨
夜の人影を消し去っていた。空欄だった死因は、こう書いた。「ドクタ
ーの報告では、ブラスターの傷によるショックが死につながった」
書いたものをよく見ると、それが死因だとは言ってない。単に、ドク
ターがそう言った、というだけだ。
メッセンジャーを呼んで、報告書を、少しの間待たせてあるメール船
へ急いで運ばせた。それから、バルマクソンに通話スクリーンで報告し
た。
「ディーム事件について、署長」と、彼。「すまないが、まだ、どこに
もたどり着けてない。だれも、あの店から出て来たものはなし。近所の
すべての隣人に質問した。今日、友人すべてと話す予定」
マクソン署長は、頭を振った。
「ジェットは全部使っていい、警部補」と、彼。「事件は、粉砕されて
しまう。殺人は、この時代でも、重罪だ。しかし、未解決事件は、考え
られない。さらなる犯罪につながる」
カクア警部補は、憂うつそうに、うなづいた。彼も、その可能性を考
えていた。殺人の社会的影響が心配される。彼の仕事にも、同様に、影
響する。この地域で、殺人の容疑者を逃がした警部補という肩書が、一
生ついて回る。
通話スクリーンを切って、署長の映像が消えたあと、カクアは、デス
クの引き出しから、ディームの友人リストを取り出して、誰から電話し
てゆくか順番を考えた。
彼が鉛筆で1と書いたのは、ペリーピーターズで、2つ理由があった。
1つの理由は、ピーターズの家が2・3軒の距離にあること、もう1つ
の理由は、ジャンゴードン教授を除いて、このリストで一番よく知って
いる者だからだ。
ジャンゴードン教授に電話するのは、一番最後にしよう。早く電話し
て教授を起こしてしまわないように、最後なら娘のジェーンに会うチャ
ンスも出て来る。
◇
ペリーピーターズは、カクアに会えて喜んだ。すぐに訪問の理由を推
理した。
「ハロー、シャーロック!」
「うん?」と、ロッド。
「シャーロックと言えば、偉大な探偵!彼のキャリアで最初のミステリ
ーに遭遇したのは、警官のときだった。どう、事件は解決した?」
「あんたの言うシャーロックって、シャーロックホームズのこと?いや、
知りたいなら言うけど、まだだ。ところで、ペリー、ディームについて
知ってることを全部、しゃべってくれないか?彼とは仲がよかったよね
?」
ペリーピーターズは、反射的にアゴをさすってから、ワークベンチに
座った。彼は、非常に背が高かったので、ジャンプしないでもそこに座
れた。
「ウィレムは、おもしろいやつだった」と、彼。「ほとんどのやつは、
彼が皮肉屋で、政治について狂った考えを持っていたから、好きじゃな
かった。オレ?オレは、彼が半分正しくて、半分時代にそぐわないのか
どうか、確信がない。とにかく、チェスに関しては、いいゲームをした」
「それが彼の唯一の趣味だった?」
「いや、物を作るのが好きで、ちょっとした小物や機械類を作っていた。
いくつかは、よくできていた。楽しみのために作っていたので、特許を
取ったりや商品化する気はまったくなかった」
「発明ということ、ペリー?あんた流に言うと」
「ちょっとした小物なので、発明というほどじゃない。ほとんどは小物
で、アイデアにすぐれていたと言うよりは、彼は職人気質にすぐれてい
た。何度も言うように、それは、彼にとっては、ただの趣味だった」
「あんたの発明にアイデアを与えてくれたことは?」と、カクア。
「確かに、なんどかある。そう、そのアイデアや目的についてではなく、
難しいパーツを作る手助けをしてくれたかんじだ」ペリーピーターズは、
ジェスチャーで手を大きく広げて、店中の物を含める動作をした。「こ
こにあるオレの作った道具は、すべて、比較的荒削りで、何千あっても、
いいのは1つもない。しかし、ウィレムは、小さいがすばらしいカミソ
リを作った。なんでも切れて、5万回使っても、切れ味はまったく変わ
らない」
「ペリーに敵は?」
「オレの知る限り、だれもいない。正直なところ、ロッド、多くの人間
に嫌われていた。しかし、嫌いの程度がふつうで、意味が分かるよね、
本とフィルムショップをやっている同業者は、みんな、よく思ってなか
った。しかし、誰かを殺したいと思うほどではなかった」
「それでは、あんたの知る限りで、だれが、彼の死で利益を得る?」
「う〜ん、はっきり言って、だれもいない」と、ピーターズ。考えなが
ら。「親戚は、金星に彼の甥がいる。一度会ったが、いいやつだった。
遺産なんて、たいしたことない、数千ドルの債券がすべてだと思う」
「ここにあるのは、彼の友人リスト、ペリー」カクアは、ペリーにリス
トを渡した。「目を通して、追加する人や、なにか提案はない?」手足
の長い発明家は、リストに目を通して、返した。
「それで全部だと思う」と、ピーターズ。「そこの2名は、オレは知ら
ないが、彼は良く知っていたのでリストにのせるにふさわしいし、彼の
顧客で、よく物を買っていた者たちものっている」
カクア警部補は、リストをポケットに戻した。
「今は、どんな仕事をしている?」と、カクア。
「なにかにつまづいている」と、発明家。「ディームの助けが欲しい。
少なくとも、彼のカミソリがあれば、もっとはかどるのだが」彼は、作
業机から、ロッドカクアも見たことのある、最もよくあるゴーグルを取
り上げた。そのレンズは、完全な円でなく、円弧のような形をして、弾
力のあるプラスチックバンドが付いていた。それは、明らかに、上の顔
の部分と下のレンズを密着させるためだった。中央の上部には、額にゴ
ーグルが当たるところだが、直径1・5インチの小さなシリンダーボッ
クスが付いていた。
「それは、いったい、なんのため?」と、カクア。
「ラジウム鉱山で使うため。鉱石からの放射で、そのままの状態なら、
人工物だろうが自然にあるものだろうが、水晶でさえ、直ちに破壊され
てしまう。裸眼には有害だ。鉱夫たちは、目をつぶりながら、手の感触
だけで作業しなくてはならない」
ロッドカクアは、珍しそうに、ゴーグルを見つめた。
「しかし、どうやって、このレンズの奇妙な形で、放射から目を守れる
んだい?」と、彼。
「てっぺんにある、この部分は、小さなモーターになっていて、それが、
レンズの上の特別仕様のワイパーを動かすんだ。旧式の窓をふくワイパ
ーと同じ。だから、レンズが、ワイパーアームの弧に合わせて、こんな
形になっているんだ」
「なるほど」と、カクア。「ワイパーは、吸収性があって、ガラスを守
るためにある種の液体を保持するということ?」
「そう、ただし、ガラスでなくて水晶を守るため。そのスピードは、0
・1秒くらいで。このワイパーは忍者みたいで、あまりに速すぎてゴー
グルを付けてる本人でさえ見ることができない。ワイパーの腕は、弧の
半分くらいあって、着けてる人は、一度にレンズの一部からしか見れな
い。しかし、彼は、ぼんやりとは見ることができる。これが、ラジウム
鉱山の採掘を千パーセント改善した」
「すばらしい、ペリー!」と、カクア。「強力なライトを付けることで、
ぼんやりも解消できる。商品化しようとした?」
「したけど、一部、問題が発生した。摩擦で熱が発生して、レンズが膨
張して、1分でグニャグニャになった、など。オレは、結局、ディーム
のカミソリよりは劣るできということが分かった。そんなもの、だれが
喜ぶ?なにかそのゴーグルの使い道やアイデアがあったら、教えて?1
両日くらいで?」
「なぜ、ダメなのか分からない」と、カクア。「署長が指名した者には、
これから会うので聞いてみる。あとで、あんたは彼の遺産から、カミソ
リを、たぶん買える。あるいは、甥から」
ペリーピーターズは、頭を振った。「いや、彼は、ドリルプレスのカ
ミソリの刃ことも知らなった。あんたはどうだい、ロッド?その使い道
が分かるなら」
◇
カクアは、帰ろうとすると、ペリーピーターズが引き止めた。
「ちょっと待って!」と、ピーターズ。息をついて、気分が悪そうに見
えた。「あんたに隠していたことがある、ロッド」と、発明家。観念し
たように。「ウィレムについて1つ知ってることがあって、それが、彼
の死につながったかもしれない。どうつながるかは、分からないが。そ
のことを彼には言うつもりはなかった、彼の死までは。それが、彼をト
ラブルに巻き込んだのかもしれない」
「いったい、それはなんだ、ペリー?」
「不法な政治本。彼は、それらを売って、ちょっとしたビジネスをして
いた。不法なリストにある本。言ってる意味は分かる?」
カクアは、少し口笛を吹いた。「どこで作られてるのかは、オレも知
らない。太陽議会は、それに重い罰を課している。ヒュー!」
「みんなは、まだ、人間、ロッド!知っちゃいけないことを、知りたが
る。なぜダメなのか知るためだけの理由で、それ以外に理由なんてない」
「グレイ本やブラック本、ペリー?」
発明家は、今、困ったように見えた。
「分からない、違いは?」
「公式リストの本は」カクアは説明した。「2つのグループに分けられ
る。本当に危険なものは、ブラック本。所有するだけで重い罰を課され
る。書いたり印刷したりすれば、死刑となる。穏やかに危険なものは、
グレイ本。そう、呼ばれている」
「ウィレムがどちらを売っていたのか、知らない。そう、これは記録か
ら除外してほしが、一度、ウィレムから借りて、2冊読んだ。オレには、
にぶい内容に思えた。主流からづれた政治理論」
「それは、グレイ本」カクア警部補は、ほっとしたように見えた。「理
論的なものは、みんな、グレイ本。ブラック本は、もっと危険な、実践
的内容があるもの」
「どのようなもの?」発明家は、カクアをじっと見つめた。
「不法なものの作り方」カクアは説明した。「レタイトのように、例え
ば、レタイトは、毒ガスで、非常に危険。これが数パウンドあれば、都
市を一掃できる。それで、太陽議会は、その製造を禁止した。その作り
方を書いた本は、ブラック本とされた。愚か者がそのような本を読んで、
自分の住んでる町を一掃するかもしれない」
「しかし、なぜそんなことを?」
「彼には、ねたみがあって、心が曲がっているのかもしれない」カクア
は説明した。「あるいは、犯罪心から、小スケールで使いたいのかも。
あるいは、彼は、別の星の政府の大統領かもしれない。そのような知識
で、太陽議会の平和を破壊したいのかもしれない」
ペリーピーターズは、考え深げに、うなづいた。「そこは、分かる」
と、彼。「まだ、分からないのは、それが、どう殺人と結びつくかとい
うところ。しかし、オレは、ウィレムの別の面をあんたに告げられた。
あんたは、あの店がまたオープンする前に、彼の本のストックをチェッ
クしたくなったと思う」
「そうだな」と、カクア。「いろいろありがとう、ペリー!もし、よけ
れば、あんたの通話スクリーンを借りて、すぐに調査を始めたい。もし
も、どこかに、ブラック本があれば、すぐに押収するだろう」
◇
スクリーンに彼の秘書が映った。彼女は、驚いたが、彼を見て安心も
した。
「ミスターカクア」と、彼女、「捜してたところ。また、怖ろしいこと、
別の殺人が」
「また、殺人?」と、カクア。
「まだ、だれも、なにがどうなってるのか知らない」と、秘書。「10
人以上の人が、たった30フィートの窓から人が飛び降りるのを見た。
ここの重力では、その高さでは死なない。しかし、みんなが行ってみる
と、彼は死んでいた。顔を見たうちの4人は、彼のことを知っていた。
それは」
「いったい、だれなんだ?」
「わたしでなく、カクア警部補、彼らが言うには、4人とも、それは、
ウィレムディームだと!」
5
ロッドカクア警部補は、辛抱強く待っている医療チームのストレッチ
ャーにすでに横たわっている死体を、ドクターの肩越しに覗いた。非現
実の悪夢のような感覚が甦った。
「急いだ方がいい、ドクター」と、医療チームのひとり。「長くはもた
ない、ここにいられるのは、あと5分だけ!」
ドクタースカイダーは、辛抱強く、見上げることなくうなづいた。そ
して、検死を続けた。「傷はなし、ロッド」と、彼。「毒殺の兆候なし。
彼の死につながる、いかなる兆候もなし」
「あの高さでは、死に至らない?」
「打ち身さえできない。ありうる唯一の死因は、心臓発作。オーケー、
運んでくれ!」
「あんたも、行っていい、警部補」
「行くが」と、カクア。「スカイダー、どちらがウィレムディーム?」
ドクターは、医療チームが車に運んでいる、白のシーツにくるまれた
ものを目で追っていた。力なく肩をすくめた。
「警部補、それは、あんたの管轄だろ?」と、彼。「オレのできること
は、死因を特定すること」
「それでは、意味をなさない」と、カクア。不満そうに。「セクター3
は、大きくはないから、誰にも知られずに、2重生活を送ることは可能
だ。しかし、ふたりのうち一方は、複製だ。記録に取らないが、どちら
が本物だと?」
ドクタースカイダーは、ニヤニヤしながら、頭を振った。
「ウィレムディームは、特徴的なこぶのような鼻をしていた」と、彼。
「彼の死体のどちらも、そうだった、ロッド。そして、どちらも人工的
で作り物のかんじはなかった。このことに、オレの教授としての名誉を
賭けてもいい。いっしょに研究室まで来れば、どちらが本物のウィレム
ディームか、教えられる」
「えっ、どうやって?」
「税部門のファイルに、彼の指紋がある。みんなの指紋もある。カリス
トでは、腐敗スピードが速いので、死体の指紋を取るのは通常の手続き
の一部になっている」
「2つの死体の指紋もある?」
「もちろん。どちらの場合も、あんたが現場に到着する前に取ってある。
ウィレムの指紋は、つまり、もう一人のだが、研究室に戻ればある。あ
んたが税オフィスのファイルから指紋を取り寄せてくれば、研究室で突
き合せられる」
カクアは、同意して、安堵のため息をついた。少なくとも、どちらが
本物かという点は、解決しそうだった。
◇
彼は、30分後までは、比較的、心が至福の状態だった。それから、
彼とドクタースカイダーは、3つの指紋を照合した。ロッドカクアが、
税オフィスのファイルから持って来たもの、それと、2つの死体から取
ったもの。3つとも、みんな同一だった。
「う〜ん」と、カクア。「3つを混ぜてしまったことはない、ドクター
スカイダー?」
「まさか!オレは、それぞれの死体から1つづつしか、指紋を取ってな
い、ロッド。もしも、今、見ている3つの指紋を混ぜてしまったとして
も、結果は同じ。3つの指紋は同一なのだから」
「しかし、あり得ない!」
スカイダーは、肩をすくめた。
「このことは、署長に直接会って言うまでは、伏せておこう」と、彼。
「これから電話して、直接会いに行く。オーケー?」
◇
30分後、彼は、バルマクソン署長にすべてを話し、ドクタースカイ
ダーが重要な点について、確証を与えた。バルマクソンの表情は、ロッ
ドカクア警部補を喜ばせた。とても喜ばせた。彼が、その確証を得たと
いうことが。
「あんたも賛成すると思うが」と、マクソン。「今回のことは、セクタ
ー長に報告され、特別調査官が調査のために、ここへ送られる」少しイ
ヤイヤながら、カクアはうなづいた。「オレが無力だと認めたくはない、
署長。あるいは、そう見えるのかもしれない」と、カクア。「しかし、
これは、普通の殺人事件じゃない。いろいろな可能性が、オレの頭をよ
ぎる。背後には、殺人よりも、もっと邪悪ななにかがある」
「あんたは正しい、警部補。優秀な人間が、今日、本部を出て、あんた
に会うためにここへ来る」
「署長」と、カクア。「なにか、装置なり実験で、人間の複製を作って、
心まで実装できるものが発明されてる?」
マクソンは、その質問に困ったように見えた。
「あんたは、ディームが、彼の複製と入れ替わったと考えている?イヤ、
オレの知る限り、そのような発明は、実験段階でも聞いたことがない。
人間を、今まで、複製したことはない、ただし、簡単な生命体の複製を
除いて。スカイダーは、そのようなものを聞いたことは?」
「ない」と、ドクター。「あんたの友人の、ペリーピーターズでさえ、
作れないと思う、ロッド」
◇
カクアは、署長のオフィスを出て、ディームの店へ行った。そこの担
当警官のブラガーは、店の徹底的な捜索を手伝った。それは、時間のか
かる骨の折れる仕事だった。本やマイクロフィルムは、1つづつ、細か
く調べなければならなかった。
不法な本の製作者は、カクアは知っているが、商品を偽装するのがう
まい。ふつう、禁止本は、表紙やタイトルページがはぎ取られ、時には、
有名な小説にはある序章までもはぎ取られている。また、マイクロフィ
ルムも同様に偽装されている。
ふたりが仕事を終えたとき、外は、すでに、木星が輝く暗闇が落ちて
いた。ロッドカクアは、ふたりは徹底的に調べたと分かっていた。店に
は、不法なリストにある本は無かった。マイクロフィルムも、すべて、
プロジェクターで再生して調べた。
ほかの警官たちは、ロッドの命令で、ディームのアパートを、同じよ
うに徹底的に調べた。彼は、電話して報告を受けた。結果は、完全に無
しだった。
「金星の旅ガイドさえなかった!」と、アパートを捜索した警官は言っ
た。彼の声には後悔のニュアンスも含まれているように、カクアは感じ
た。
「カミソリはなかった?小さくて、精密機械の刃に使えそうなやつ?」
と、ロッド。
「うう、なかった。オレたちは、そのようなものは見なかった。1室が
作業用になっていたが、カミソリは無かった。重要なもの?」
カクアは、その点はあいまいなまま、労をねぎらって電話を切った。
また、新しいミステリーだった。今度のは小さいもので、今回の事件に
関係するか分からない。
「さて、警部補」と、ブラガー。通話スクリーンが消えると言った。
「これから、なにを?」
カクアは、ため息をついた。
「あんたは、勤務外にしていい、ブラガー」と、彼。「その代わり、こ
ことアパートのガードの警官を手配してくれ!オレは、とにかく、だれ
か代わりの警官が来るまでは、ここに残る」
ブラガーが行ってしまうと、カクアは、疲れて、近くのイスに深々と
座った。肉体的に、ひどく疲れを感じた。精神的にも、これ以上、働け
そうになかった。彼は、また、きちんと並べられた店の商品棚を眺めた。
なんらかの糸口があったとしても、ウィルダーウィリアムスは、この
ような事件を扱ったことはなかっただろう。唯一の手掛かりが、2つの
同一の死体。1つは、5つの異なった方法で殺され、もう一つは、暴力
の痕跡がゼロ。ここから、彼は、なにを、どう推理して行くのだろう?
さて、彼は、まだ、面会予定リストを持っている。今夜は、少なくと
も、あとひとりは、面会する時間がある。
また、ペリーピーターズを訪問すべきだろうか?そして、もしなにか
あれば、ひょろ長い発明家は、カミソリが消えた理由について、話して
くれるかもしれない。少なくとも、彼は、なにが起こってるかの仮説は
立てるだろう。しかし、カミソリが事件とどう関わるのか不明のままだ。
複製の死体をカミソリに結び付けられない。
あるいは、ゴードン教授を訪問すべきだろうか?彼は、そうすること
に決めた。
通話スクリーンでゴードン家を呼び出すと、画面には、ジェーンが映
った。
「お父さまは、ジェーン?」と、カクア。「今夜、少し、彼と話せる?」
「ええ、もちろん」と、ジェーン。「彼は元気になって、明日は、大学
に戻れそう。しかし、すぐ来れるなら、ここへ来たら、ロッド!あなた、
疲れているように見える、どうしたの?」
「なにも、自分がバカに思える以外は。元気だと思う」
「なにか、やせて、餓死しそうに見える。最後に食べたのはいつ?」
カクアは、ぱっと目を見開いた。「なんてこと!食べるをのすっかり
忘れていた!昨夜遅く寝て、まだ、朝食も食べてない」
ジェーンゴードンは笑った。
「バカね!それなら、急いで。なにか食べるものを用意しとくわ」
「しかし」
「しかしもなにもない!すぐ来れる?」
通話スクリーンを切ってすぐ、カクアは、店のシャッターの降りたド
アをノックする音に応えるため店の入口に行った。
ドアを開けた。「ハロー、リーゼ!」と、彼。「ブラガーが、あんた
を?」
警官は、うなづいた。
「彼は、任務でここへ来るようにと言った。任務って?」
「守衛の任務、それだけ」と、カクアは説明した。「オレは、午後じゅ
うずっと、ここにいる。なにか変わったことは?」
「ちょっとした騒動。オレたちは、石鹸箱の上で演説する連中をしょっ
引いた。1日かかった。変わり者が、流行になっている」
「なんだって?なにを宣伝している?」
「セクター2に関して、なんのことか、オレにも分からない。連中は、
センター2について、なにかをするよう、人々をそそのかしている。そ
の理由からして、ただの頭の変な話」
なにかが、ロッドカクアの記憶をゆさぶり、落ち着きがなくなった。
しかし、それがなんなのか全く思い出せなかった。セクター2?最近、
だれかが彼に、セクター2についてなにかを言っていた気がした。高利
貸し、フェアでない、汚れた血、なにかバカげたこと。もちろん、そこ
にいる多くの人々は、火星人の血を引いている。
「逮捕された演説者は、なん人?」
「7人。ほかに2人いたが、逃がした。また、演説を始めたら、しょっ
引く!」
6
ロッドカクア警部補は、ゆっくり歩き、考えながらゴードン家のアパ
ートへ向かった。最近どこでアンチセクター2プロパガンダを聞いたか、
必死に、思い出そうとしながら。同時に9人の石鹸箱演説者が現れて、
同じ教義を宣伝していることに、裏でつながっているに違いない。
政治的秘密結社?しかし、そのようなものは、ここ100年間は存在
しなかった。完全に民主的な政府のもと、組織内部がすべて公開された、
安定的で開放的なシステムの惑星から構成されていて、そのような活動
は必要なかった。もちろん、たまに現れる変わり者は不満を表したが、
しかし、同じ心情のグループというのは、あり得ないように思えた。
それは、ウィレムディーム事件と同じくらい、クレージーに聞こえた。
どちらも、意味をなさない。もの事が、夢の中のように、意味もなく起
こる。夢?夢について、なにかを思い出そうとした。昨夜は奇妙な夢を
見た?どんな夢だった?
◇
しかし、夢は、いつもそうであるように、思い出されることを拒んだ。
◇
とにかく、明日、逮捕されてる過激派たちに質問してみよう。男たち
の仕事を辿れば、明らかな共通基盤なり連帯を見つけられるだろう。
やつらが、同じ日に宣伝を始めたのは、偶然ではあり得ない。それは
奇妙だったが、本とフィルムショップ店主の2つの説明の付かない死体
と同じくらい奇妙だった。事件がどちらも奇妙なので、彼の意識は、2
つの出来事をペアで考えようとしていた。しかし、いっしょにすると、
別々に考えるよりも、理解しやすいというわけでもなかった。2つは、
依然として、意味をなさなかった。
ああ、なんてことだ!、なんで、ガニメデの勤務のオファーが来たと
きに、受けなかったのだろう?ガニメデは、秩序正しい、いい衛星だ。
そこの住人は、続けて、2件の殺人事件なんて起こさない。しかし、ジ
ェーンゴードンは、ガニメデには住んでない。彼女は、まさしく、ここ、
セクター3に住んでいて、彼は、彼女に会いに行く途中なのだ。
すべては、すばらしかった。ただし、すごく疲れて、まともに考えら
れないことや、ジェーンゴードンは、彼のことを求婚者よりは、兄のよ
うに見ていることを除いて。もしも、本部からの調査員が、彼が見逃し
ていた簡単な説明を見つけてしまったら、彼は、カリストじゅうの笑い
者になってしまうだろう。
ジェーンゴードンは、ドア口で彼を迎えたとき、以前にもまして、美
しく見えた。彼女は、笑っていた。その笑顔は、彼が光の下に来ると、
心配の表情に変わった。
「ロッド!」と、彼女。「あなた、病気に見える。本当に病気!食事も
忘れて、いったいなにをしていたの?」
ロッドカクアは、ニヤリとしようとした。
「暗闇の路地で、悪者を追っていて、堂々巡りをしていたのさ、アイシ
クル!通話スクリーンを使わせてもらえるかな?」
「もちろん!食べ物を用意しておく。電話してるあいだに、テーブルに
並べておく。父は、少し寝ている。来たら起こしてと言ってたけど、あ
なたが食べるまで、そのままにしておく」
彼女は、急いで、キッチンへ行った。カクアは、通話スクリーンに辿
り着くまでに、イスに座ってしまうところだった。警察署を呼び出した。
夜間補佐の赤ら顔の体格のいいボーグセンが、スクリーンに現れた。
「ハイ、ボーグ!」と、カクア。「聞いて!今日逮捕した7人の変わり
者だが」
「9人!」と、ボーグセンが割り込んだ。「残りの2人も捕えた。これ
以上いないことを望む。もう、へとへと」
「残りの2人も、また、宣伝を始めたと?」
「いや、ただ、やつらは、やって来て、自首した。やつらには、告訴状
が出ていたので、追い返せなかった。やつらは、ずっと、自白していた。
なにを、自白したと思う?」
「なに?」と、カクア。
「あんたに雇われたそうだ。ひとりに付き100クレジットで」
「なんだって?」
ボーグセンは、笑った、少しワイルドに。「ふたりは、自分から、そ
う言った。ほかの7人は━━━ああ、なんだって、警官になんかなっち
まったんだろう?オレは、一度、宇宙船の消防士の研修を受けるチャン
スがあった。しかし、このありさまだ」
「見ていて!オレはすぐそこへ行って、やつらがオレを告発しているか
確かめる」
「やつらは、たぶん、そうだが、それは、あまり、意味がない、ロッド!
あんたに雇われたと言うのは、今日の午後で、あんたは、午後じゅう、
ブラガーといっしょにディームの店にいた。ロッド、この衛星は、頭が
おかしくなりつつある。オレもそうだ。ウォルタージョンソンは、失踪
した。朝から姿を見てない」
「なに?署長が信頼してる秘書官が?からかってるのか、ボーグ?」
「そう、望みたい。あんたは、勤務外でラーキーだ。マクソンは、秘書
を見つけてくれたやつに、報酬を出すそうだ。彼は、ディームの事件が
好きでない。オレたちの恥だと思ってる。このセクターで、男が1回殺
されただけで、かなり悪い。それなのに、どっちがディーム、ロッド?
なにかアイデアは?」
「今、ふたりを、仮に、ディームとサブディームと呼ばしてもらう」と、
彼。「どちらもディームだと思うが」
「しかし、ひとりの男が、どうしてふたりに?」
「ひとりの男を、どうやって5つのやり方で殺せる?」と、カクア。か
ぶせるように。「教えてくれれば、オレも答えを教える」
「おかしい」と、ボーグセン。そして、控え目に言った。「この事件に
は、奇妙ななにかがある」
カクアは、大声で笑ったので、目に涙が出た。そのとき、ジェーンゴ
ードンが食事の用意ができたと言った。彼女は、彼にしかめ面をしたが、
その裏には関心があった。
カクアは、おとなしく彼女に従い、自分がかなり空腹なのに気付いた。
彼が皿を押しのけるまでに、すでに3人前をたいらげていた。ふたたび、
人間らしさを自分に感じた。頭痛は、まだあったが、遠くぼんやりとし
たものとなっていた。
◇
か弱い、ゴードン教授は、居間で、彼がキッチンから戻るのを待って
いた。「ロッド、あんた、拾われたネコのように見える」と、彼。「倒
れる前に、座って!」
カクアは、ニヤリとした。「食い過ぎた!ジェーンの料理は最高!」
彼は、ゴードンと向き合ったイスに座った。ジェーンゴードンは、父
のイスの肘掛けに腰掛けた。カクアの目は、彼女にくぎ付けになった。
なんて、ソフトでキスしやすい唇をした娘なんだ!その同じ唇が、結婚
をただの事務的な手続きとして拒否したとしても。それに、なんて、す
ばらしい━━━
「彼の死因についてピンと来ないが、ウィレムディームは、政治的な本
を貸し出していた」と、ゴードン。「かわいそうな本人は、すでに死ん
でるので、オレが言っても差し障りはない」
同じような言葉は、とカクアは考えた、ペリーピーターズも使ってい
た。
カクアは、うなづいた。
「オレたちは、彼の店やアパートを捜索したが、なにも見つからなかっ
た、教授」と、彼。「もちろん、どんな本なのか、あんたは知らないだ
ろうが」
ゴードン教授は、笑った。「残念ながら。知ってる、ロッド。記録な
しで、あんたは、この会話を録音してないと思うが、それらの何冊かは
読んだ」
「あんたが?」カクアの声には、素直な驚きがあった。
「教師の興味を、過小評価しないように、マイボーイ!グレイ本を読む
ことは、残念ながら、大学の教師の間で、かなり一般的な悪行となって
いる。他の教師よりも。確かに、それを販売するのは間違っているが、
それらの本を読むことは、偏見のない、思慮分別のある心には、おそら
く、害にならない」
「そして、父は確かに、偏見のない、思慮分別のある心を持ってる、ロ
ッド」と、ジェーン。少し反抗的に。「そう、彼が、オレに、その本を
読ませたわけではない」
カクアは、彼女に、ニヤリとした。教授の使ったグレイ本という言葉
は、彼を安心させた。
グレイ本を借りることは、軽犯罪にしかならなかった。
「グレイ本を読んだことは、ロッド?」と、教授。カクアは、頭を振っ
た。
「それなら、あんたは、催眠医学のことを聞いたことはないだろう。デ
ィーム事件の状況を見ると、そう、催眠医学が使われたかもしれない、
と懸念している」
「それが、なんなのか、そもそも知らない、教授」
か弱い、小さな老人は、ため息をついた。
「それは、あんたが不法な本を読んだことがないからだ、ロッド」と、
ゴードン。「催眠医学は、人の心を他者によってコントロールするもの
で、それが違法とされるまでに、かなり高度な発展を遂げていた。カプ
レリアン命令やバーガス歯車を聞いたことは?」
カクアは、頭を振った。
「その歴史は、グレイ本のいくつかに書かれている」と、教授。「実際
の方法や、どうやってバーガス歯車を作るかは、不法性が高まるので、
ブラック本になる。もちろん、オレは読んではないが、その歴史は読ん
だ。
18世紀に遡って、メスマーという名前が、催眠医学の発見者ではな
いが、最初の実践者のひとりの名前になる。とにかく、彼は、多かれ少
なかれ、それを、科学的土台の上に乗せた。20世紀までに、ごくわず
かだが研究は進んで、医学の分野では、広範に使用されるようになった。
100年後、医師たちは、薬や手術を使うのと同様に、催眠医学を使
って、患者を治療した。確かに、間違った使用もあっただろうが、それ
は、比較的、ごくわずかだった。
しかし、続く100年のあいだに、大きな変化があった。メスメリズ
ムは、発展し過ぎて、公共の安全性を脅かすまでになった。なまかじり
の知識を使って、犯罪的な、あるいは利己的な政治家が、罰せられるこ
となく、その技術を使うかもしれなかった。彼は、すべての人々を、い
つでも、腑抜けにさせて、その技術を使って、逃げられた」
「そいつは、人々の考えを、やつの意のままに変えられるということ?」
と、カクア。
「それだけじゃない。そいつは、人々に、なにかをさせることもできる。
映像を使えば、ひとりがしゃべって、何百万人に、視覚的にも聴覚的に
も直接伝えることができる」
「しかし、政府は、その技術を規制できなかった?」
ゴードン教授は、かすかに笑った。「法の執行者も人間で、人々が催
眠医学の影響下にあるときに、どうやって?しかも、物事が複雑になり
過ぎて希望の見えないときに、バーガス歯車が発明された。
その発明は、19世紀にはよく知られている、動く鏡を改良したもの
で、それを見ている者を催眠コントロール下に置ける。思考の転移につ
いては、21世紀に実験されていた。バーガスは、以下で述べるものと
結び付けて完成させたのが、バーガス歯車。それは、ある種のヘルメッ
トのようなものに、回転する歯車が付いていて、その上にトリッキーな
鏡が特殊な形で装着されている」
「どんな働きを、教授?」と、カクア。
「バーガス歯車ヘルメットを着けた者は、彼を、直接、あるいは、映像
で見ている者を、即座に、自動的に、コントロール下に置ける」と、ゴ
ードン。小さな回転する歯車に付いた鏡が、瞬時に催眠状態を作り出し、
ヘルメットは、ある意味、それを着けた者の考えを、歯車を通して送り
込み、彼が送り込みたい思想がなんであれ、従属者に植え付けることが
できる。
「実際、ヘルメットや歯車は、セットになって初めて、ある種の幻を作
り出す。操作者が、何かをしゃべる必要はない。あるいは、何かに集中
する必要もない。コントロールは、直接、彼の心から送られる」
「おお!」と、カクア。「それに似たものを━━━確かに、バーガス歯
車の作り方が、ブラック本だということは分かる!なんてこと、それら
を身に着けた者が━━━」
「ほとんど、どんなことでもできる。人を殺すことも、彼の死が、5つ
の違う方法に見えたり、5つの違う観察になったりということも」
カクアは、軽く口笛を吹いた。「それに、9人の男に、石鹸箱演説者
を演じさせることも。彼らは過激派である必要もない。普通の一般市民
でいい」
「9人の男?」と、ジェーンゴードン。「9人の男がなにを、ロッド?」
「詳しくは聞いてない」
ロッドは、すでに、立ち上がっていた。
「説明してる時間がない、アイシクル」と、彼。「明日、電話する。そ
の前にすることが━━━待てよ、教授、バーガス歯車ビジネスについて
知ってることは、それですべて?」「それが、すべて、マイボーイ!今
までに、5社か6社作られたが、最終的には、政府が、みんな捕えて、
ひとつづつ、すべて破壊した。そのために、何百万の命が代償になった。
すべてが最終的に一掃されたとき、惑星間の植民地戦争が始まって、
国際会議が、全政府を越えたコントロールを開始した。彼らは、催眠医
学の全分野は、とても危険なので、それを禁止事項にした。その知識を
一掃するのに、数世紀かかったが、それは、成功した。その証拠に、あ
んたは、なにも聞いたことがなかった」
「けれど、その恩恵のある部分は、どうなの?」と、ジェーンゴードン。
「失われても?」
「もちろん、失われた」と、彼女の父。「しかし、医学は、その時まで、
とても進歩していて、失われたものはそんなに多くはなかった。今日、
医者は、催眠医学が扱えるものはなんでも、肉体的な処置で治療できる」
カクアは、ドアのところにいたが、戻って来た。
「教授、だれかがディームからブラック本を借りて、その秘密を学ぶこ
とは可能?」と、彼。
ゴードン教授は、肩をすくめた。「ありうる。ディームは、たまに、
ブラック本を扱っていた。しかし、彼は、売ったり、オレに貸すよりも、
もっといい方法を思いついたのだろう。その証拠に、オレにはなにも伝
えてない」
7
署に戻ると、カクア警部補は、取り乱しているボーグセン補佐に出食
わした。
彼は、カクアを見た。
「あんた!」と、彼。それから、訴えるように。「世界は、おかしくな
っちまった!ブラガーがウィレムディームを発見したって?きのうの朝
10時に?それから、守衛任務でそこに行ったら、スカイダーとあんた
と医療チームが来た?」
「そうだが、なぜ?」と、カクアは訊いた。
ボーグセンの顔の表情は、事件の進展が、どれだけ彼の精神的負担に
なっているかを示していた。
「なにも、なにもない!ただし、ブラガーは、きのうの朝、急いで、病
院に行って、くじいた足首を治療した。彼は、9時から11時まで病院
にいたから、ディームの店に行けるはずはなかった。7人の、医者、付
き添い、看護婦が、彼は病院にいたと証言した」
カクアは、顔をしかめた。
「彼は、今日、オレの手助けに、ディームの店に来たとき、びっこを引
いていた」と、彼。「ブラガーは、なんて?」
「彼が言うには、そこにいた、つまり、ディームの店にいた。オレたち
は、たまたま、顔を合わせた。たまたま会わなかったら━━━ロッド、
オレは、おかしくなりそうだ!オレは、宇宙船の消防士になるチャンス
があったのに、この始末だ!新しい進展は?」
「たぶん、あった。しかし、最初に、あんたに訊きたい、ボーグ。捕え
た9人の変わり者だが、オレを識別できるか━━━」
「やつらは」と、ボーグセン。「みんな逃がした」
カクアは、驚いて、体格のいい夜間補佐の顔を見た。
「逃がした?」と、彼。「それは、法的にできない。彼らは、告発され
ている。裁判なしに、逃がすことはできない」
「だけど、逃がした。その責任は取る。だって、ロッド、やつらはみん
な、正しいだろ?」
「え?」
「そうさ、みんな、セクター2で起こっていることに、目覚めるべきだ。
あいつらのいかさまには、くさびを打ち込む必要がある。それができる
のは、オレたちしかいない。ここが、カリストの本部になるべきだ。ま
さに、ここが。ロッド、カリスト連合は、ガニメデと組むべきだろ?」
「ボーグ、今夜、なにか映像放送がなかった?だれかが、あんたにスピ
ーチを聞かせなかった?」
「あったよ、あんたも聞いた?友人のスカイダー。あんたは、ここへ歩
いて来る途中だったに違いない。映像放送は自動的にスイッチオンにな
って、汎用放送だったから」
「そこで、なにか提案されなかった、ボーグ?セクター2やガニメデの
ようなことで?」
「ああ、明日の朝10時に一般会合がある、広場で。みんな行くと思う、
あんたともそこで会えるよね?」
「もちろん」と、カクア。「ただ、あんたが━━━いや、行くよ、ボー
グ」ロッドカクアは、悪さの原因がなにか、今、分かった。ボーグセン
がさっきやろうと言ったことは、いわゆる、バーガス歯車の影響下で、
聞かせられたことに近かった。それ以外、それ以外のなにものも、今、
ボーグセン補佐が言った内容を、彼にしゃべらせることはできない。ゴ
ードン教授の推理は、あらゆる点で、的中した。それ以外のなにも、こ
のような結果をもたらすことはあり得なかった。
◇
カクアは、木星の輝く夜を抜けて、盲目的に歩いた。彼のアパートも
過ぎた。まだ、そこへは帰りたくなかった。
セクター3シティの通りは、夜の遅い1時間にしては、混んでいた。
遅い?腕時計を見ると、軽く口笛を吹いた。今は、夜中でもなかった。
朝の2時で、この時間、普段なら通りに人はまったくいなかった。
しかし、今夜は違った。人々は、ひとり、あるいは、少人数で、歩き
回っていた。みんな、薄気味悪い沈黙を保っていた。足を交叉させたり、
しかし、ささやき声さえ立てなかった。
ささやき!この通りや通りにいる人々が、カクアに昨夜の夢を、今、
思い出させた。今、思うと、それは夢でなかったと分かった。普通の言
葉の意味で、眠りながら歩いていたのでもなかった。
彼は、服を着た。ビルから盗んだ。通りの明かりは、また、消えてい
た。つまり、サービス部門の従業員は、自分の仕事を無視したことを意
味する。彼らも、みんなと同じに、群衆にまぎれて歩いていた。
昨夜は、ささやきが聞こえていた。なんて言っていた?一部を思いだ
した。
「殺せ!殺せ!殺せ!やつらが嫌い━━━」
昨夜の夢は、現実だったという事実の重要性に気づいて、背中に震え
が走った。これは、小さな本とフィルムショップ店主の殺人事件に、矮
小化されたなにかだ。
それは、1都市を支配するなにか、世界を転覆させるなにか、24世
紀以来、経験したことのない規模での、信じられないほどの恐怖と大虐
殺に導くなにかだ。それは、ただの殺人事件から始まった。
どこかへ向かっていた。カクアは、群衆を導くひとりの男の声を聞い
た。逆上した声、狂信的な叫び声。彼は、通りの角まで急ぐと、群衆が
取り囲んでいる先に、階段の踊り場で演説している男が見えた。
「━━━明日がその日だ。オレたちは、今、署長本人も味方につけた。
彼を罷免する必要はない。今夜、夜じゅう働く者たちも、準備している。
明朝の広場でのミーティングのあと、オレたちは━━━」
「ヘイ!」と、ロッドカクアは叫んだ。男は、しゃべるのをやめて、ロ
ッドの方に向いた。群衆も、ゆっくりと、ひとりの人間のように向きを
変え、彼を見ようとした。
「あんたを━━━」
このとき、カクアは、これが無駄な努力であることが分かった。
彼を促し、納得させてくれるのは、男たちではなかった。彼は、暴力
は怖れなかった。薄気味悪い恐怖を取り除くものとして、むしろ、歓迎
した。短剣で戦える、いいチャンスとして、歓迎した。
しかし、演説者の後ろに立っていたのは、制服の男、ブラガーだった。
カクアは、署の担当はボーグセンで、彼は敵側だったことを思い出した。
ボーグセンが、今、担当で、彼が逮捕状を出すことを拒めば、どうやっ
て、演説者を逮捕できる?
(つづく)